小説

『姫』木江恭(『人魚姫』)

 ミカは腰に手を当てて上目遣いにぼくを睨んだ。可愛い。きゅっと引き締まったウェストはミカの小さな掌でさえ一周してしまいそうだ。
「とにかく、気をつけてよ。まだ学部生のわたしたちが研究室に入れるのって特別なんだからね。教授のお気に入りの姫に何かあったら許可取り消されちゃう」
「うん、わかった、ごめん」
「わかればよろしい。じゃあ、授業行こっか」
 ミカはかがめていた腰を伸ばすと、何でもないような素振りでぼくの手をきゅっと握った。
「え、ミ、ミカ」
「大丈夫、朝早いからまだ誰もいないよ」
 さっさと歩き出し、こちらを振り返りもせず早口で答えるミカの耳が赤い。
 じゅわっと手汗が噴き出した。心臓がどくんと高鳴る。
 これはあれかいわゆるフラグか、朝早いからまだ誰もいないから手を繋いで一緒に歩いて、ついでにもうちょっと親密な行為に出たとしても構わないというミカからの遠まわしな許可というかお誘いというか、いやしかしそれはどうなんだぼくらはつい昨日に付き合い始めたばかりの干したての洗濯物みたいに清らかで真っ白な関係で。
 空いている方の掌から汗が滴り落ちそうになり、ズボンに擦り付けながらぼくはよろよろと足を進める。電灯がまばらに点いた薄暗い廊下に人気はない。背徳的で魅力的な静けさがぼくたちに迫る。
 ごくりと唾を飲んだ瞬間、ひゅんっと背筋が冷えて痛みのような感覚が走った。次いで、後ろから何かじっとりとした気配。
 ぼくはおそるおそる振り向く。
「王子谷くん?」
 水槽の中から、内臓を吐き出してげっそりと窶れた彼女がじっとぼくを見つめていた。

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