小説

『姫』木江恭(『人魚姫』)

 ああ――これが彼女の定めなのか!
 ぼくは馬鹿か。少し考えればわかった筈じゃないか。人魚姫は王子の愛を得られなくて海のもずくに、間違えた、海のもくずになってしまうんだ。でもこれはぼくが悪いんじゃないぞ、ぼくに与えられた絵本が、そもそも何で末っ子長男であったぼくに愛らしい人魚の絵本を与える気になったのかそこをまず知りたいものだがそれはとりあえず置いておいて、ぼくが初めて読んだ「にんぎょひめ」の絵本には確かに海のもずくと書いてあったのだ。致命的すぎる誤植だ。その瞬間、母が絵本を手に凍りつき父が唾を噴き出したのをよく覚えている。
 違う違う、今はもずくでももくずでもどっちでもいいんだ、重要なのは彼女が今あの悲しい人魚姫と同じ運命を辿ろうとしているってことじゃないか。どうすればいい、どうすれば彼女を元に戻せる、いつもの日常に戻ることが出来る。昨日に時間を巻戻してミカへの告白を無かったことにすればいいのか?でもそれは嫌だ、ぼくはやっぱりミカと付き合いたいしあんなことやこんなことや、ついでにそんなことも「おはようございます」
 ミカが研究室に入ってきた。

「ナマコの仲間には敵に襲われると内臓を吐き出し、敵がこれを食している間に逃れるという習性を持つものがいる。日本で最も一般的であるマナマコ、棘皮動物門ウニ形亜門ナマコ綱盾手目シカクナマコ科マナマコ属マナマコもこの一種であり、吐き出した内蔵は数ヶ月程で再生される。以上、ウィキペディアその他より」
 ミカは信じられない肺活量で一気に言い切って、冷めた目でぼくを見た。
「こんなの常識でしょ。王子谷くん、君は本当に海洋大学の学生さんなのかな?」
「あいすみません、面目ございません」
 マナマコの正式名称をすらすらと暗唱できるのはミカが無類の海洋生物マニアだからであって決して常識ではないが――院生ならともかくぼくらはこの春入学したばかりだ――ぼくは口をつぐむことを選択した。
 ミカは「姫」とラベルの貼られた水槽を覗き込んで溜め息を付いた。ぼくは強靭な精神力で以てミカから目を逸らす。正確には、たぷんと揺れたミカの豊かな胸元から。
「ほんとびっくりした、朝一で姫の顔見に来たら王子谷くんが姫抱きしめて転がってるんだもん」
「こ、転がってはいない」
「じゃあのたうち回っていた」
「それも違う」
 ぼくはただ、姫を胸に抱いて感極まり震えていただけである。

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