小説

『末裔』広瀬厚氏(『雪女』)

 何事もどうでも良くなった。
「わたくし個人なぞ」
 されど無は無限の同義語か?、ハルと一つにある私は、これは現実に困惑し逃避を心に望むが故に、現前した白昼夢なのだ、と曖昧なる意識のなか考えた。それともやはり、炎天下の熱に頭をやられてしまったのかも知れない。それでもいい。気が狂っていようといまいと、いま私は大変に充ちている。
 と、その時、全身に電流が走り、私は彼女のなかに白い私を、次の世代に繋げる希望の、せめてもの代償に放出した。
仰向けに目を閉じ放心する私の耳に女の声がした。
「うそよ」そう聞こえた。
 私はそっと目を開けた。自分の部屋の天井が目に映る。自分の存在も、自分のまわりを取り囲む世界も、何もかもが私には分からない思いがした。横に人の気配がする。私は気配のするほうへゆっくり顔を向けた。黒く美しい髪が乱れてあった。
「うそよ」もう一度声がした。
「えっ?」と、私はとっさに言った。
「わたしの話したことは全部出鱈目だから忘れてちょうだい。雪女なんているわけないわ」
 私は、女の頭のてっぺんからつま先まで、くまなく視線を注いだ。透き通るような白い肌をもった神秘的な女だ。
「いや、僕の横にいるよ」
 女もこちらに顔を向けた。しかし何も言わない。けれども何か話しかけるような目で、私の目を見た。
「運命なんだ。覚悟はある」
 そう言って、私はハルを優しく抱き寄せた。どことなく冷んやりとして心地よかった。

 私は太陽が照りつける酷暑のなか必死に仕事を探した。汗は、これでもかと言うほどに容赦なく、私のからだを流れでた。しかし納得のいく仕事は、なかなかそう簡単には見つからなかった。
 私はあの日からハルと付き合うようになった。彼女は色が白いほか、なんら人と変わるところのない、花屋の店員をする普通の女性だった。彼女と出会ったあの日のことは、いまだ夢か幻か判然しない、不思議な感覚で私の心にある。ハルも私もあの日のことは暗黙の了解のように何一つ話そうとしなかった。二人は自然に出会い、自然に結ばれた、一対の幸せな男女のようであった。

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