小説

『末裔』広瀬厚氏(『雪女』)

 ガチャン! 寒気に震え歩く私の目の前に、突然建設中のビルの上から建設資材が落下し歩道を激しく叩きつけ、大きな音を立てた。間一髪だった。私はその場で膝をつき崩れた。
 どうにか無事にマンションの玄関の前までたどり着いた。私は玄関のドアをためらいながら開けた。ずっと待っていたように、ハルが玄関のなかで立っていた。
「アキオさん」そう言った彼女の瞳の奥に、出会ったとき以来見せなかった、冷たく鋭いものが宿るのを見た。私は自分の死を覚悟した。だが、死ぬ前に秘密を他言したことを、彼女に謝らなければならない。私が頭を下げ「すまない」と言いかけたのを遮るように、
「おかえりなさい」とハルが、普段とかわらず言った。私が頭を上げたとき、彼女の瞳の奥に見た冷たく鋭いものは、すでにその影を消していた。私は二度と冗談にも、ハルは雪女なのだ、などと他人に話さぬよう自分の胸にかたく誓った。ハルはだいぶんと大きくなった自分の腹をさすってみせた。玄関をあがり私も、私達二人の子が宿る彼女の腹をさすった。
 梅雨が明け、また暑い夏がやって来た。その日はことさら暑く、朝からじんわり汗がひたいに滲んだ。朝食を済ませ私は洗面所で歯を磨き髭を剃っていた。すると、
「アキオさん」とハルの呼ぶ声が聞こえる。私はあわてて手に持つシェーバーを洗面台の横におき、キッチンへ向かった。そこには食事の後片づけの途中、うずくまり腹をおさえ苦しむハルの姿があった。
「おい、どうした」驚いた私はハルの前にしゃがみ聞いた。
「陣痛が始まったみたい。タクシー呼んでちょうだい」ハルが苦しそうな声で言った。
 確か予定日より十日ばかし早い。しかし特別早いわけでもないだろう。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく私は急いでタクシーを呼んだ。
 タクシーを待っているあいだ、少し落ち着いたハルが「ごめんね」と言う。「何にも謝ることないだろう」と私は返した。「いや、なんとなく」「そうか」「うん、、」私にはハルが何を謝ったのか、ぼんやり分かる気がした。しかし本当のところは分からない。
 その日ハルは産婦人科で無事に出産をした。可愛らしい女の子が生まれてきた。二人は夏に生まれた女の子に夏海と名づけた。きっとナツミはハル同様、夏も海もまったく似合わない色白の美人に成長することだろう。
 それにしてもいまだ私には判然としない。それを本人に尋ねることも、何故だか憚られ出来ない。出会ったあの日のことは私にとって、やはり夢の中の出来事のようだ。月日が経つにつれ、より一層そう思われてくる。本当にハルは雪女の末裔なのだろうか? そうだとすれば確か、私は雪女が産んだ男児の末裔にあたる。そして雪女が産んだ一番目の女児であるナツミも、雪女の末裔と言うことになる。雪女は三十才までに子供を産まなければ、命の灯火がすうっと消えてしまうとも言っていた。となると、、成長したナツミが雪女の男児の末裔と出会い結ばれ、三十才までに子供を産むことができるかどうか、まだ彼女は生まれたばかりだと言うのに、私は大変心配になってきた。

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