小説

『sleeping movie』日吉仔郎(『眠れる森の美女』)

 本編が始まる前の予告編が始まってしまってから、ようやくお父さんは帰って来た。また「あ、すみません、失礼します」と弱そうな声で言いながら、蟹歩きしてこっちに来る。遅い。これで怪獣グッズなんて嬉しそうに見せてきたら、もう絶交だから。
「尚子お待たせ、いやあ、売店混んでてさ」
 でもお父さんが手に持っていたのは怪獣グッズではなく、ポップコーンと烏龍茶とカルピスが載ったトレイだった。ポップコーンからはとても甘い匂いがする。ただのポップコーンじゃない。キャラメルポップコーンだ!
――全米ナンバーワン大ヒット!
――この冬、一番の感動を!
 予告編が大きく光って喋るなか、お父さんはそっと顔を寄せてきて、小声で「尚子、カルピス好きだったよな。でも烏龍茶もあるぞ。どっちがいい?」と聞いてくる。「カルピス」わたしはカルピスが好きだ。いまも昔も。わたしはカルピスを手に取って、一口飲む。
 お父さんは、わたしとのあいだのドリンクホルダーにトレイを固定させて、上を向いてみたり、小さく肩を動かしたり、ささやかなストレッチをして、それからスクリーンを見上げた。そのまま手元を見ずに、わたしより先にキャラメルポップコーンを一掴みとる。一度に三粒くらいずつ食べた。全部食べられたらたまらない。わたしもポップコーンに手を伸ばした。
 柔らかいところはほろりと溶けて、かさかさしたコーンの皮が口に残る。ほんのりしょっぱいところがキャラメルの甘さを引き立てる。薄暗いなかではキャラメルがたくさんついている部分を選んで食べることができないけど、スクリーンに映る予告編は、予告でも、遠くに思いを馳せるのに十分だった。本編は、もうすぐ始まりそうだ。

 前半はお父さんが全部食べちゃうんじゃないかっていう勢いでキャラメルポップコーンが減っていったが、途中から、お父さんはポップコーンにまったく手を伸ばさなくなった。味に飽きたのか、おとなだし胸焼けとかしているのか、こんなにおいしいのにもったいない。わたしはそう思っていた。
 映画はなかなか怪獣が出てこず、おとながああだこうだと話し合いを続けるシーンが続いて、退屈になってきた。でもお父さんはこれ見たがってたし、こういう難しげな人間ドラマが好きなのかな。ポップコーンも買ってきてくれたし、ただの怪獣オタクではないのかもしれない。
 わたしはふとスクリーンから目を離して、隣のお父さんを見た。するとそこには、ある意味で映画よりも衝撃的な光景が広がっていた。
 お父さんは寝ていた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10