小説

『sleeping movie』日吉仔郎(『眠れる森の美女』)

「じゃ、夕方五時にまたここね」
「あ、うん」
 お父さんが頷き、お母さんは財布から五百円玉を出して机の上に置いてさっさと喫茶店を出ていってしまう。
 待って、お母さん、わたしまだ心の準備できてない。
 そう思ったけれど、お母さんは一度も振り返らない。
 開きっぱなしの本を持ったまま、わたしは視線をそうっとお父さんに移す。当たり前かもしれないけど、お母さんよりもわたしよりも背の高いお父さんは、座っていて大きく見えた。
 とうとう目が合ってしまう。「久しぶり」とか、「元気か」とか、なんか言われるかと思ったけど、お父さんは気まずそうに目を逸らした。いや、逸らしたわけじゃない、そういわんばかりに、芝居がかった仕草で、天井の照明やたばこを吸うひとたちの座るほうをぐるっと見回してから、ゆっくりと、わたしに視線を戻した。そして数秒間じっとしばらく見合って、ようやく言った。
「えーっと、昼飯って食べた?」
「まだ」
 答えながらわたしは、そうだ、お父さんこんな人だったかも、と思い出しつつある。
「じゃあなんかほら、好きなのを」
 誰もいない隣のテーブルからメニューをひったくって、軽食のページを開いて、わたし向きに机に置いた。ミックスサンド、カレー、オムライス、ドリア、ナポリタン。近くの席からまたゆらゆらとたばこの煙が届いては、鼻先をかすめる。ていうか、ここで食べるの? 違うところがいい。
「決まった?」
 メニューから視線をあげ、睨みつけて、ここに食べたいものなんかないってお父さんに知らせようとしたけど、お父さんはそれをどれにするか決めたことを示す合図だって勘違いした。「すみません」手を挙げておじさんを呼んでしまう。喫茶店のおじさんはほとんど無表情でやってきて、ついでにお父さんの分の水を机に置いた。
「おれはブレンドとミックスサンド、それからえーっと」
 今度はお父さんに注文を促される。わたしは投げやりに注文する。
「オムライス」
「はいブレンド、ミックス、オムライスね」
 注文を書きつけ、お母さんが飲み干して空っぽのコーヒーカップとメニューを下げて、おじさんは奥に引っ込んでいく。
 お父さんは、スマートホンをいじるでも煙草を吹かすでも新聞を読み始めるでもなく、わたしに話しかけてくるでもなく、ひたすらわたしを見ていた。というか直視しないでちらちらとわたしの様子を窺っていた。わたしは居た堪れないので、視線から逃げるように、本を読んでオムライスを待つことにした。やっぱり内容は、あまり頭に入ってこない。

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