小説

『sleeping movie』日吉仔郎(『眠れる森の美女』)

 地下へ続く階段を降りていった先に、待ち合わせ場所の喫茶店があった。
 喫茶店はレトロな感じで、暖色系の照明に照らされて、茶色のソファがますます茶色くなって見える。禁煙席がひとつもない。先にお父さんが来ているのかと、どきどきしながらお店に入ったけれど、お父さんはまだ来ていなかった。わたしとお母さんは二人で向かい合って四人掛けのソファ席に座った。通された席のソファは端っこが破けて、レトロというより、ただぼろい喫茶店なのかもしれない。
「ホットコーヒーひとつと、ほら、尚子あなたなんにするの」
 お母さんに急かされ、わたしは慌ててメニューを見た。「えっと、じゃあ、カフェオレ」「ホットコーヒーとカフェオレね」注文を取りに来たおじさんは復唱して伝票に注文を書き留めて、メニューを持ってお店の裏へ消えていった。
 お店は空いていたけれど何組か他のお客さんもいて、たばこの煙がこちらまで漂ってくる。お父さんと連絡を取っているのか、お母さんは険しい顔でスマートホンにかかりきりになる。
 喫茶店のおじさんが無言で持ってきたカフェオレは、ホットカフェオレだった。わたしはアイスカフェオレのつもりだったのに。机のうえにある砂糖壺は底が湿気で固まっていて、スプーンですくえるところがちょっとしかなかった。カフェオレを思うように甘くできない。
「まったく。久しぶりに娘に会うのに遅刻とかありえない」
 お母さんは盛大な溜息を吐き、既に湯気の立たなくなったコーヒーをぐいっと一口、勢いよく飲んだ。「ん、おいしい」そう呟くブラック派の母さんは砂糖壺が底で固まっているのには気が付かない。「でも、もうすぐ着くって」平静を装って貧乏ゆすりを我慢し、しきりに指でとんとん机を叩いている。
 緊張するお母さんを見ていると、わたしだけでも落ち着かなくてはと思った。
 電車で読む用に、ショルダーバッグに入れて本を持ってきていた。取り出して、試しに字を目で追ってみる。内容は頭に入ってこないけれど、普段やっていることを繰り返せば、いくらか落ち着いていられる。
 からんからん。
 喫茶店の扉のベルが鳴った。本から顔を上げると、入ってすぐの会計レジの前にお父さんが立っていた。無地の黒シャツを着てジーンズを履いている。前に見たときより、髪の毛が少し伸びた気がする。
 お父さんが店内を見回そうとしたので、目が合わないように、急いでわたしは視線を本に戻した。こつこつと足音が近付いてくる。お父さんは革靴を履いているらしい。「遅い」お母さんの声が聞こえて、「ごめん」とお父さんの声が聞こえた。
「尚子、お父さん来たわよ」
 お母さんに促され、顔を上げないわけにはいかなくなる。顔を上げるとお父さんはもうわたしの前の席に座っていて、お母さんは席を立っていた。

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