小説

『ロータス・イーター』末永政和(『蟻とキリギリス』)

 このままでは巣に帰れなくなる。彼はとっさにキリギリスの足に食い込んでいた顎を離して、落下するに任せた。体がくるくると回転して、手足が千切れるかと思った。思考もあちこちに散乱するように、浮かんでは消えてを繰り返した。
 思えばずいぶんとあっけない別れであった。キリギリスは鳥の餌となるのだろう。巣へと運ばれて、雛についばまれるのかもしれない。そうやって命はつながれていく。

 落ちた先は、幸いなことに巣穴からさほど離れてはいなかった。その時分には仲間たちも活動をはじめていて、彼の姿をみとめると有無を言わさず、巣穴へ引きずって行った。キリギリスを遠ざけようとするところを、仲間の一匹が見ていたのだった。
 巣穴の一室に閉じ込められて、彼は幾つもの晩をそこで過ごした。仲間たちのために懸命に働き続けてきた彼にとって、何もさせてもらえないのはどんな拷問よりも堪え難い罰であった。時が流れるのが遅く、狭い部屋の中をうろうろと歩きまわった。弁明の機会は与えられなかった。せめて体を打ち据えるなり、元のように仲間に尽くすための機会を与えてほしかった。いまはただ、その存在を消し去られたようなものだった。
 体が重かった。冬が近づいているせいかもしれない。仲間たちは冬に備えて、栄養をたくわえはじめているだろう。キリギリスに対して餌などないと言ったのは決して嘘ではなく、彼らは冬のために巣穴に餌を溜め込んだりはしない。出来る限りの栄養を体におさめて、春までを眠りのなかで過ごすのだ。
 自分もこのまま、キリギリスのように飢えて死ぬのだろうか。それが裏切りに対する戒めなのかもしれない。どんな罰も甘んじて受けるつもりだったが、死ぬのは耐えられなかった。仲間に尽くすことこそが彼の生きがいだったのだ。死んでしまっては何にもならない。泥をすすってでも生き延びたいと、彼は切に思った。
 その願いが通じたものか、ある日目を覚ますと、部屋の入り口に餌が積まれていた。
「春が来たらここから出してやる。それまでここで頭を冷やすがいい」
 見張りの言葉を聞いて、ようやく彼は安心した。そうとなれば、さっさと餌を腹に詰め込んで眠ってしまうに限る。次に目を覚ましたときには、暖かい春がやってきているだろう。
 そこまで考えたとき、ふと彼のなかに疑問が浮かんだのである。たとえ再び目覚めるときがやってくるとはいえ、すべてをあきらめて眠りにつくのは、死ぬのとそう大差ないのではないか。食べられるだけ食べて眠りにつこうという自分の選択は、キリギリスの生き方よりもよほど下等なのではないか。
 蓮の実を食べて生きる種族のことを彼は思いだしていた。

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