男は夢から醒めました。そこは東京の部屋でした。
なぜだか、どうしても田舎に行かなければと男は思いました。すでに真夜中でしたが、男は高熱で重くなった身体をどうにか動かして、タクシーに乗りました。車の窓から見えるのはいつもと変わらぬ明るい街並みでした。しかし、今の男には立ち並ぶ背の高いビルが桜の木に見えました。
ここはどこだ?男はわからなくなりました。しかしここがどこでも、もう男には関係ありませんでした。男には帰るところがありませんでしたから。しかし帰るところがないということは、同時に、どこにでも行けるということでもありました。
男は目をつむりました。今までに見てきたいろいろな場所や季節やそこに吹く風を瞼の裏に映しだしました。そして、この景色を誰かに見せたいと思いました。男の仕事は誰かの孤独を乗せてどこかに運ぶ乗り物を作ることでした。そのことに気づいた男は安心しました。そして音もなくただ静かな眠りが訪れました。
田舎に着いたときにはすでに朝でした。熱は引いていないようで、身体はまだ痛みました。男は必死に足を引きずり這うようにして歩きました。歩いてたどり着いたのは、ああ、桜の森の満開の下です。そこには、あの少女が立っていました。少女はずっと、この田舎にひとりぼっちで取り残されていたのだとわかりました。そして、置き去りにしたのは自分だということがわかりました。
男はようやく、自分が倒れた理由がわかりました。それは過労のためではなく、つまらない昔の自分を殺してしまったためでした。
男は歩き出しました。少女が振り向きます。それは少女ではなく鬼でした。しかし男はもう鬼を恐れませんでした。
しんしんと桜の降り注ぐ中、男は鬼の腕を掴みました。鬼は、田舎にいたころの男に姿を変えていました。正面から向き合って、そして男は昔の自分を抱きしめました。
昔の男が言います。
「ずっとここにいたんだ」
今の男が答えます。
「東京に行くには、あの日じゃなくっちゃならなかったんだ」
「約束でもあったの」
「約束したんだ」
「誰と約束したっていうの」
「東京の街と約束したんだ」
「東京の街と?」