「そうだろう、だって俺の仕事は立派なんだ」
少女の言葉を深く考えることもないほどに、男は幸せでした。どこまでも走っていけると思いました。桜の花びらが舞います。ここにはもう、どこまでも桜しかありませんでした。しんしんと冷たくなっていく果てのない桜の道、それでも男は桜を恐れることはありませんでした。なぜなら男には、過剰な自意識があったからです。男は、自分の仕事を立派だと認めた少女を後ろに乗せているのだと強く思いました。そしてそれは、坂を転がり落ちていく速度を上げさせました。
桜の森のまんなかに差しかかったとき、どっと風が吹きました。どこから来たともわからない無数の花びらが視界を奪います。ごうごうと音が鳴ります。
ここはどこだ?男はわからなくなりました。そして、肩を掴む少女の手が冷たくなっていることに気づきました。男ははっとします。荷台に乗せた少女は鬼だということが、とっさにわかりました。
少女の手は男の首まで這い上がり絞め付けました。男は少女を振り落とそうと必死に走りました。自転車が倒れて、ふたりとも地面に叩きつけられました。そこは男の東京のあの部屋でした。あるいは男が仕事をする舞台の上でした。男はすぐさま立ち上がり、鬼の首を絞めます。夢中でした。明滅する街のネオンが、舞台のライトが男を包みます。全身の力を込めて、男は少女の首を絞めていました。そしてふと気づいたときには、すでに少女の息の根は止まっていました。
無数の花びらが舞います。ここは間違いなく田舎の桜の森の満開の下でした。そして、少女を殺したのは男でした。
男はぼんやりとしました。息が止まり、思考が止まり、もうなにも考えることができなくなっていました。立派な仕事をしている男は、考えることこそが仕事でした。しかし男は止まってしまいました。あの東京の部屋は、田舎の桜の森と変わらないということに気づきました。もう男を苦しめる不安は消えていました。もう男は、虚無の中にいつまででもじっとしていることができました。
桜の花びらが埋め尽くす地面に横たわる少女は、しんしんと降り注ぎ続ける花びらに飲まれそうになっていました。男は泣きました。叫びました。少女を殺したのは自分だとはっきりわかりました。
花びらの中から少女の腕を掴もうとしたとき、妙な感触がありました。男の瞬きが開けたとき、もうそこには少女はいませんでした。ただ無数の花びらがあるばかりでした。
少女は、おそらく男の孤独そのものでした。孤独は表現の根源でした。しかしもう孤独は掻き消えてしまいました。もうここからどこにも行けないと男は思いました。それでも花びらの中からどうにか少女を捜そうと手を延ばすと、男の指の先は桜の花びらになって縺れました。男は花びらになって消えていく自分の身体を見つめて、男が目を閉じたとき桜の森の満開の下にはもう誰もいませんでした。ただ、花びらと、果てのない虚無が広がっているだけでした。