ゆうじのことを考えてみた。すると、あの、タイプの音が充満する部屋のことと、満員電車のことがよみがえってきた。
そうか、ゆうじはもう違うのだな、と思って、私は少し哀しくなった。
次にキャスケットをくれた彼のことを思い出してみた。小説家になっているだろうか。今どんな恋人がいるのだろう。でも、思ったよりも何も、彼のことは思い出せなかった。
それから私はお母さんのことを思った。お母さんにも老いと死が近づいていること。
あの幸福な食卓が何回でも続けばいいと本気で思った。その為だったら、私なんでもがんばります。だから、神様…
考えているうちにうとうとと眠くなってきて、私はやはり動物でしかないのだと気がつく。人間は考える動物、でしかないのだ。本能や感覚にはどうしたって逆らえない。だから気持ちのいい方向に進むのが一番あっているのだ。
そうだ、だから私はあんな会社を辞めてしまおう。
それで、なんだかもっとささやかで、呼吸のしやすい場所で働けばいい。どうせタイプ部屋で働いていたって、お給料は雀の涙だし、キャリアアップなんてほど遠い。
ああそういえば、朝倉さんには悪いことをしたな。トイレでの一人の時間は格別なモノなのだ。それなのに私ってばそれを邪魔しちゃったんだから。
そうだ、私、明日は赤い口紅を塗っていこう。ぽんぽんって、指で唇に色をのっけて。そしたら不細工な顔も少しは素敵に見えるかも。
カタカタカタ。
私はぞくっとして、起き上がると、カノンが扉を開けた音だった。
私は安心してまた眠りにつく。
明日こそは「次の駅」で降りよう。
お母さん、寂しがるかなぁ。でもカノンもいるから、きっと大丈夫。おみやげだっていっぱい買ってくるし。
ゆうじ。ごめんね。ゆうじにはきっと私の身体も心も、スプーンひとすくいだって分かるはずがない。だからそんなこと、始めから望むべきじゃあないのだ。でもそしたら、人と人はどうして恋人同士になるんだろう。何にもわかんないって前提なら、どうしてそれでも…。そうだ、明日はゆうじに手紙を書こう。うんと心をこめて、ありったけの言葉を使って。ゆうじのために、手紙を書くんだ。
カノンが私の布団に入ってきた。
カノンは何故生きているの?
さあ、そんなこと、バカじゃないから考えないよ。
カノンは頭がいい猫だね。明日またご飯をあげるよ。