でも何故か、それをゆうじには言えなかった。
他のことは何でも、例えば彼が靴の音をこつこつと立てて歩くことが不快だということや、時々自分が大好きなカノンをいじめてやりたくなる気持ちになることや、だけど、それだけは決して言えなかった。
そして何度も嫌だ、と感じるたびに、彼が私の身体を私が思うようにさわることは不可能なのだ、ということに気がついた。そして、私は諦めた。諦めたら、なんだかゆうじに会う必要がなくなってしまった気がした。メールも電話も応えなくなった。そうしたら、彼からもじきに連絡が来なくなった。
カノンの首を撫でてみる。カノンはそうなることが自然のように、ゴロゴロ、と喉を鳴らしている。
「お前も、こんな触り方するなって怒っているでしょう。」
自分の部屋に戻ると、部屋は、私が朝出て行ったままの空気を残していて、私は換気をするのを忘れていたことに気がつく。
急いで窓を開ける。
窓をあけると、この間までの冬の冷たい空気はもうどこかに行ってしまっていて、少し暑いと感じた。
パジャマを薄着のものに変えようと、クローゼットをあさっていると、ぽとり、と上の棚から黒いキャスケットの帽子が落ちてきた。
「これは絶対に、美智子さんにしか似合わない帽子だよ。」
そう言って、あの子は笑った。
あの子は、私より一つだけ年が下で、小説家志望だった。素敵な服が好きで、美しい生き方に憧れていた。わるくいえば少しきどっていた。
彼は私を、美智子さん、と小説の主人公のように呼んだ。
私は黒いキャスケットを頭にちょこんと乗せてみる。
そして全身鏡の前に立つ。
あの頃、私がフランス文学を専攻していた頃は、今よりももっと髪の毛が短くて、それで今よりももっと痩せていた。
彼は「食べること」がとても卑しいことで嫌いなんだと言った。
鏡にむかって微笑んでみる。
あの頃私たちが追いかけていたのは、まぎれもなく死だった。死ぬということ、そのことに途方もなく憧れていた。
今思えばとてもロマンチックだった。ガリガリの身体で、喫茶店で、コーヒーとタバコを飲みながら、本を読む。