「ねえさん駅、もうすぐ?」
「うん、もうすぐ。あそこ曲がったら、見える」
ミヤコがもうすぐと言って指差した場所には、小さな一軒家ほどの歯科医院があった。医院の前にある花壇から生えてくるような形で看板があり、そこの医院の名前(歯科医の苗字に歯科とついただけ)が載っていて、その周りには可愛らしい動物のイラストも描かれてある。
「ああ、あそこ、歯医者さんだ。ぼくあそこは嫌いだ。椅子が大きくって、やだと云っても立ち上がったらいけないし動けないし、眩しいよ」
「わたしも嫌い」
「ねえさんも嫌いなの、あそこ」
「うん。だって匂いがして。あの匂いを嗅いでいるだけで歯がしくしくしてくる」
「いやだねえ。ぼくまたあそこに行かなきゃいけないの?」
「知らない。でもずうっと行かないで済む人は、あんまりいないかも」
「いやだなあ。今度はいつ行くの、ぼく」
「だから知らない。嫌だったら歯磨き、ちゃんとする、いい?」
「うん、ちゃんとする」
シュウタは歯磨きをきちんとしなきゃ、と今にでも歯磨きをしたいように思ったが、やがて家に帰るときにはもう忘れている。前歯の方だけをシャカシャカやって、それで終わり。ときたまミヤコが面倒を見ているときなどは、歯、駄目だよ前歯だけじゃ、奥歯もやらないと、歯医者さんに連れてくよ、などと云って、シュウタを脅かして楽しむ。それを聞くとシュウタはもう必死になって、歯磨きをする。が、また時が経てばすぐに忘れて前歯の方だけをシャカシャカする。
そうこうしているうちに、駅はもう目の前に現れる。シュウタは駅が見えたなり、歯磨きのことなど考えるのをやめ、「駅だ!」と騒ぎ始める。
「何がそんなに楽しいの」
ミヤコは少しだけ可笑しそうにシュウタを見て云うのだが、シュウタはなぜと問われてもよく分からない。けれど楽しいものは楽しいのだから、理由などなくても楽しい。駅は本当に楽しい。楽しくてしょうがないから、
「なんでねえさんは楽しくないの、駅」
なんてことをシュウタは云う。ミヤコは何とも答えず、まあいいや、と声に出さず云って、駅の改札口で切符を買おうと線路図を見る。ミヤコが眺めている先に見える網状に広がる、触ったことも見たこともない文字を見ながら、ミヤコの頭にはこんなに線の多い文字も入っているのか、とシュウタはまたミヤコが羨ましくなる。シュウタは最近になってようやく平仮名で、しゅうた、と自分の名前が書けるようになったばかりだ。