皮肉なことに、僕の気持ちが杏子から離れるのよりも速く、杏子の気持ちが僕から離れていっているようだった。
もし別れることになったら。杏子に別れを切り出されたら。それだけは避けたかった。彼女に対する愛情はしぼんでも、4 年分の愛着がパンパンにふくらんでいた。矛盾しているようだが、いまの僕は杏子と付き合い続けたいわけでも、別れたいわけでもなかった。もはや自分でも、自分がどうしたいのかわからなくなっていた。ただダラダラと二人でいる毎日に嫌気がさしていた。
僕の肩身は、日に日に狭まっていった。
ある土曜日の午後、僕と杏子はいつものように部屋でまったりしていた。正確に言えば、僕と、杏子とリリーが、まったりしていた。僕は床に腹ばいになりながら『BRUTUS』をめくり、杏子はソファでリリーを太ももに乗せて『OZMagazine』をめくっていた。
「猫も雑誌を読む時代かね」
「リリーはおされ系女子やからな」
「それ、どこ特集?」
「横浜。うはあ、ここのパンケーキ屋、行きたいなあ、リリー」
「にゃあ」
タイミングよくリリーが鳴いた。
その声を聞いて僕はちょっと腹が立ったが、気を取り直して台所に向かった。
そして、杏子に黙って買っておいた、とっておきの食材を冷蔵庫から取り出した。杏子とリリーを引き離せないなら、あとはどうにかしてリリーと仲良くなり、それをきっかけに杏子との関係を修復させるしか道がなかった。このままでは、本当にこの部屋に僕の居場所がなくなってしまう。
「リリーちゃん。ほうら、おやつだよお~」
僕はできうるかぎりの猫なで声で、リリーの鼻先にまぐろの刺身を一切れ差し出した。「猫好物」で検索して、わざわざこれだけのためにスーパーまで行ったのだ。
リリーは首をちょっと伸ばしてくんくんとにおいだけかぐと、ふいっと回れ右してまた杏子のほうに向かって行ってしまった。尻尾を天井に向けてぴんと伸ばしたその後ろ姿は、中世ヨーロッパの女王様のように優雅だった。
「ガン無視されとるな~」
杏子が雑誌から目を離さずに、グサッと刺さる一言を放った。持て余した刺し身を口に放り込むと、鉄っぽい味が口いっぱいに広がった。