小説

『猫と、僕と杏子の距離』こさかゆうき(『猫と庄造と二人のをんな』)

 僕は無理矢理、杏子にキスをしようと試みた。彼女は顔を背けた。
「やめーや!なんなん、これ!?」
 杏子の声は震えていた。
「僕はキミの彼氏だ!こうする権利がある」
「んなこと…」
「僕は。僕は杏子のことが好きだった。5 年前、サークルの新歓コンパで出会ったときのこと、まだ覚えてる。初めて一緒に北海道に行ったときのことも、クリスマスイブにケンカしてキルフェボンのケーキを台無しにしたことも、フジロックでオアシスのライブを聴きながらキスしたことも。ぜんぶ、ぜんぶ覚えてる。あのときの景色も、あのときの気持ちも。いつも僕の顔のすぐ近くにあった杏子の横顔も。覚えてるから、つらいんだ。もうないなんて認めたくないんだ。僕の中に、あのとき以上のキミを想う気持ちがないなんて。なくしたいなんて願ってなかったのに。どっかの誰かが僕の胸を無理矢理こじ開けて、『スキ』という樹を根からごっそり奪っていったんだ。リリーがうちに来て、なんとなくだけど、猫を一緒に育てることでもう一度キミのこと愛せるんじゃないかって思って。でもダメだった。リリーとキミが仲良くしているのを見て、リリーが僕を嫌っているのを感じて、二人に対する嫉妬しか生まれなかった。段々と杏子の気持ちが僕から離れていってるのもわかって。でもなんか、それはそれですごくイヤで。だから、もう…」
「もう、いいよ。わかったから」
 僕も杏子も、しばらく黙っていた。僕は頬に生暖かいものを感じた。必死にしゃべりながら、涙を流していたのだということに気がついた。彼女はいったい、何がわかったのだろうか。うつむいたその顔からは、どんな表情も読み取れなかった。
 僕の両手は、まだなんとなく杏子の胸の上にあった。杏子の体のやわらかさではなく、ドン・キホーテで買ったフリースのパサパサした感触だけが僕の手に伝わってきた。僕はそっと、自分の手を杏子の胸からどけた。
 沈黙の合間に、たまに僕が鼻水をすする音だけがあたりに響いた。
 やがて杏子が僕の体を軽く押して、すっと立ち上がった。僕も立ち上がろうとしたがうまく体に力が入らず、そのまま床に寝そべった。生乾きの涙が、僕から体温を奪っていった。
 部屋のほうでがさごそと音がして、やがて、キイ、とドアが開く音がした。
 ガチャン。鍵をかける音は、いつまで待っても聞こえてこなかった。
 その夜から、僕の一人暮らしがはじまった。たった27 平米の部屋が、やけに広く感じられた。

 杏子とリリーのその後を知ったのは、それから3 ヵ月くらい経ったころだった。杏子と共通の友達と飲んでいるときに、たまたま話題にのぼった。

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