小説

『猫と、僕と杏子の距離』こさかゆうき(『猫と庄造と二人のをんな』)

「ははぁーん。忘れられない初恋ってやつやな」
 僕と会話しながらも、杏子の興味は完全にリリーに向いていた。リリー、リリーと歌うように呼びかけていた。杏子と猫のある景色を、僕はぼんやり眺めていた。
 最初の数日間は、穏やかに過ぎていった。僕と杏子はそれぞれの仕事から帰ってくると、どちらともなくリリーにトイレをしつけたり、猫の育て方に関する知識をあれこれ教えあったりした。そうしているときには自然と笑い合えた。
 二人の暮らしに色が戻ってくるのを感じた。

 リリーは、僕が想像していたよりもずっとスムーズに新しい環境に馴染んでいった。ペット用トイレを買えばそこで用を足すようになり、爪を研ぐ棒を買えばそこで爪を研ぐようになった。だけど、僕にだけは一向に馴染む様子がなかった。
 彼女は杏子の尻ばかりを追いかけていた。杏子が台所へ向かうと、それについていく。杏子がトイレに向かうと、それについていく(さすがの杏子も、猫をトイレには入れなかった)。このあたりで、僕の中で「リリーのレズ疑惑」が浮上した。メス猫のくせに、男(動物でいうオス)の僕でなく、女(動物でいうメス)の杏子にベッタリなのだ。逆ならまだわかるが、これはどう考えても
おかしい。
 次第に杏子も、僕よりリリーと話す時間のほうが長くなっていった。1K のこの部屋の住人の力関係が徐々に変化していった。まるで、杏子とリリーの部屋に僕が居候させてもらっているかのような状況になっていた。
 当初のシナリオでは、リリーが加入することによって僕と杏子が仲睦まじくなるはずだった。しかし蓋を開けてみると、リリーと杏子が仲睦まじくなり、僕と杏子の距離は(ほんの最初だけ縮まったが)むしろ、ますます離れていっているではないか。杏子への愛情を、取り戻さなければならないというのに。
 僕の彼女への想いは、確実に薄まっていってしまう。これはまずい、と僕は焦った。
 次に僕が考えたのは、杏子とリリーを引き離すことだった。
「最近忙しいの?」
「んー、棚卸し終わったからだいぶ落ち着いたわ」
「え、ほんと?それなら久々に旅行でもいかない?」
「うーん」
「杏子、旅行に行きたいっていつも言ってるじゃん。あそこ行こう、ここ行こうって誘ってくるじゃん?僕もちょうど仕事落ち着いてるし、たまには息抜きにさ」
「そやなぁ」

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