小説

『猫と、僕と杏子の距離』こさかゆうき(『猫と庄造と二人のをんな』)

 煮え切らない返事。僕は予想外の反応に焦った。
「ほら、前に杏子が言ってた、長野にあるジビエ料理のおいしい宿とか!」
 お。これには反応したぞ。杏子の眼に興味の光が宿ったのを、僕は見逃さなかった。
「長野なら新幹線でもアクセスしやすいし、何ならレンタカーでも…」
「リリーはどうするん?」
 猫も食ったらジビエ料理と呼ぶのだろうか。うまいのだろうか。杏子の世界はすでに、リリーを中心に回りはじめていた。
 しかし、ここで引いては男がすたるというものだ。
「友達が言ってたんだけど、猫の場合は1 泊くらいの旅行なら平気で留守番するみたい。エサをちょっと多めに器に入れとけば、あとは好きに過ごすんじゃないかな」
「いや、そういう問題じゃなくて。心配じゃないん?ちゃんとご飯食べてるかなーとか、ちゃんとおしっこはトイレでしとるんやろかー、とか」
「じゃあさ、日帰りで箱根の温泉とかは?朝出て夜には帰ってくるんだから、それなら問題ないでしょ?あ、それか、ペットホテルに預けるとか。ちゃんとしたところなら、ちょっとお金はかかるけどリリーをしっかり見てくれるんじゃないかな」
「あのさあ」
 杏子がこちらに体を向けて、僕の眼をまっすぐに見つめた。
「問題、ありありや。そもそも健二は、リリーだけこのこんまい部屋に放置して、自分たちだけ楽しめるん?ホテル言うても、結局リリーにとってはまったく馴染みのない場所やし、落ち着かんやろ」
「うーん。えーっと。あ、じゃあ、リリーも連れて…」
 もはや本末転倒だったが、それ以外にもう選択肢がない。とにかくこの人口密度の高い閉鎖的な空間から逃げ出すことが重要だった。
「健二はぜんっぜんわかっとらん。猫は環境が変わるんがめっちゃいややねんて。毎回旅行に連れ回したら、きっとノイローゼかなんかになってまうわ」
「じゃあ、あの子。リリーをくれた…」
「ああ、柚葉ね。新しい彼氏が猫アレルギーなんやて。飼ってる猫、ぜんぶ人に譲ったって言うてたわ。てゆか、そのうちの一匹がリリーや」
 万事休す。そういうことだったのか。
 ともあれ、彼女が僕よりもリリーと一緒にいたいのだということが、痛いほどよくわかった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9