小説

『I am 救世主』亀井ハル(『桃太郎』)

「おい」
 近くで声がしたと思うとイヌがソファーにあがってしっぽをふっていた。
「ごめん,私一人じゃなかったわね」
 乾パンの粉を口の周りいっぱいにつけたイヌが黙ってこっちを見ている。
「そうだ、のど乾いたよね」
 さっきから喉の奥がひりひりしていたのを思い出し,懐中電灯を頼りに冷蔵庫に向かう。私より背の高い冷蔵庫を開けると,中はまだ少し冷たかった。お水を手に取った時,横目にラップに包まれた白い塊が見えた。昨日まで,私が部屋の外にでるのは一日3回。トイレの時とお風呂の時と深夜にお腹が減った時。大体の時間は決めてあるからパパもママもその時は寝室にいて顔を合わさないように気を使ってくれている。一度深夜に冷蔵庫を開けた時,何もなくてひどくイラついたことがあったのでママに(冷蔵庫には何か食べ物をお願いします)と力強く書いて廊下に置いたまま空腹に耐えながら,歯を食いしばって小学校の校歌を歌いながら眠りについたことがあった。それ以来,ママは私の好きなものを遠い記憶から手繰り寄せて冷蔵庫に置くようになった。食べたり食べなかったりだったけど,ママはいつも忘れず手作りのものを冷蔵庫に入れておいてくれた。私はその白い粒を一つ口に運ぶと,涙が止めどなく溢れてきた。
「団子なんかもうすきじゃないよ,ママ」
 私はその場で座り込んでしまった。保育園で一緒に団子を作ったときにママより大きいのを作ろうと頑張ったんだっけ。私はママに言いたいことがたくさんあった気がする。パパにも言いたいことがたくさんあった気がする。ママとパパと私とイヌとネコでどんなことを話してきたんだろう。私は冷蔵庫に頭を何度もぶつけながらごめんなさいを繰り返した。息ができなかった。壊れそうな私の前にイヌがのそのそやってきて,何も言わずに丸くなった。私はイヌに少し触れて心が和らいだ気がした。本当マジ尊敬してます。愛しています。ありがとう。ヤバい。


 残った団子をジップロックに詰めて私はイヌと外にでた。部屋を出るのに比べてあまり動じなかったが,一度振り子の勢いがついてしまうとこんなものなのかなとも思った。
 こんな状況だし。街は変わらす静かだったが,部屋で感じたあの腐臭はますます濃くなった。所々血もついてるみたい。肉片もありそうだけど,見たくないので見ません。私はどこ行こうか迷ってイヌに相談しようとした時
「しーっ,何か来る」
 とイヌが私に言った。私はパパのゴルフクラブを強く握りしめて身構えた。遠くの空から黒いシルエットが近づいてくる。ばさばさばさと大きな音を立ててインドから怪鳥ガルーダ様が来日されたのかと思ったがその割には色が地味だし見た目もしょぼいのでなんだ単なる鳥か,と一瞬安堵したがそれにしてはでかくて躊躇った。

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