小説

『小さな私の思い出』加藤饅頭(ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』)



 夕方の散歩から戻ると、客は少年の日の思い出を話し始めた。

 
 かつて、線路沿いの、線路から少し離れた原っぱの遊歩道は、たくさんの昆虫であふれていて、子どもの頃、我々はそこで昆虫をつかまえた。舗装された歩道に沿ってクヌギの木立が並び、そのまま裏の山へと稲田が広がっていた。また、線路の反対側は小さな崖になっていて、崖の下には和歌山まで南へ伸びる浅い川が流れていた。
 最初、蝶から始めたことで、我々は、気ままに飛んでいるように思えるものでも、すぐに飛ばなくなってしまうと知った。買ってもらったばかりの、新品の虫かごの初めての中身は、一週間と経たないうちに、別の昆虫と入れ替わった。葉っぱの裏で、翅の黒と黄の細かい模様がひっくり返ったまま動かないのを発見したとき、私はまだ虫かごの蓋を開けるのにも慣れていなくて、四本の指で蓋の縁をがりがりと削り続けるのがやっとだった。我々が蝶から始めたのは、それが一番つかまえられそうだったからだと思う。以前から、暖かい午後になると、みかんの花のまわりをふらふら舞って、空っぽの線路の方へと消えていく彼らの後ろ姿を見つけていて、我々はそういうやり方に憧れていた。
 カマキリが私の人生に入ってきたのは、夏休みの真ん中のことで、階段の欄干に張りついているのをつかまえた。彼らが我々にもたらした物語は、強者と弱者のはっきりとした序列についてだった。つまり、それ以前に私はバッタを何匹もつかまえていたので、カマキリの餌として虫かごに入れたままにしておいた。彼らは動くものはなんでも捕らえるから、例えば、ハエのような素早く飛ぶ虫でも、すぐに鎌で捕らえて食べてしまう。その夏、我々は自分たちのカマキリに、遊歩道の原っぱに生息するほとんどすべての種類のバッタを与えたが(トノサマバッタ、イボバッタ、オンブバッタ、ショウリョウバッタ)、たぶんそれでも足りなかった。肉食の彼らは、生き物の肉をねこそぎ抉りとるような食べ方をして、それは食べるというよりも殺すというような食べ方だった。
 夏休みも終わりに近づいたある日、我々は川原のそばの駐輪場で、カマキリ同士を戦わせた。大木がそれぞれ、私の虫かごからオスのカマキリを、今中の虫かごからメスのカマキリを選り出してくれた。熱せられたマンホールの土俵でしばらく取っ組み合い(のように見える交尾)が続いたあと、唐突に私のものが食べられ始めた。なんとなくその様子を眺めるのをやめられずにいると、大木が二人に向かって言った。「こいつらには痛覚ってものがないからな」。私の背中からすっと汗がひいて、冷たくなった。夏休みの幕引きはあっという間にやってきて、それは一羽のモズが木から羽ばたいて、マンホールの隣にあった煉瓦のブロックに降り立ち、カマキリの胴体をくわえてまたぷいと飛んでいったことで、終わりになった。カマキリをたった一匹でもつかまえることは、当時の情熱であり、確かな達成でもあったが、そのうち我々はそれを気持ち悪いとしか思えなくなった。

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