小説

『霧の日』化野生姜(『むじな』)

…顔が分からないのではない。今まで「本当の女」を見たこと自体が無いのだ。

そう気づいたときだった。
女がするりと立ち上がった。
そうして、女はこちらに顔を見せる。
その瞬間、俺は目を見開いた。

女の顔は、木の洞のようであった。
湿り気のある内側から見た木の洞だ。
洞の向こうには、森が広がっていた。
そして、洞から見える景色の中にひとり赤い着物を着た人間がいた。
その着物や髪は、霧雨によってしっとりと濡れている。顔は見えない。
そして女は、つい今しがた離したばかりと見える手を洞の中から引き抜いた。

俺はそれを見て、孫の手を離した。
いや…違う。俺には孫なんて、ましてや息子なんていない。

俺は気づいていた。
あの孫は俺自身だ。
あの息子は俺自身だ。

成長した、俺の姿だ。

手を離した途端、俺の体は変化していく。
年寄りから中年へ、中年から青年へ…。

しかしそれらの時間は、すべて意味をなさない。

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