小説

『霧の日』化野生姜(『むじな』)

やがて、その紙を読み進めていくうちに老人の顔からは血の気が引いていった。

内容はこの赤ん坊を育ててほしいというものであった。
しかし、そこに書かれた年月は今から七十年以上も前のものであったのだ…。

そのとき、ふいに叫び声がした。
見れば、自分の妻が恐怖に引きつった顔で腕の中の赤子を見ている。
その赤子に何かが起きていた。
そして老人もその原因が何か分かった途端、思わずうめき声を漏らしていた。

その虫食いだらけの産着には、もはや泣かない赤子がいた。
しかしその赤子はみるみるひからび、まるで止まっていた七十年という歳月を無理矢理進めたかのようにも見えた。そして枯れ果てた声で、赤ん坊は言った。

『ああ…そんな顔だったのか…。』

その途端、ぐしゃっと赤ん坊の顔が崩れた。
赤ん坊の体は産着の中で粉々に砕け散った。

…もはや、誰も何も言わなかった。
だんだんと湿り気をおびた空気が辺りに漂いはじめていた。

…かさり。
そのとき、老人の背後で何かの動く音がした。
見れば一匹の狸のしっぽが草むらの中へ消えていくのが見えた。

老人はそれを見て思い出した。
昔このあたりで狸が『むじな』と呼ばれていた時代のことを…。
彼らが人を化かすということを。

そうして老人は、狭い獣道を静かに見つめた。
あの顔の分からぬ獣が去って行った、霧雨の降る獣道を…。

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