小説

『蜘蛛の糸』anurito(『蜘蛛の糸』)

 そのまま、カンダタは住人の男たちに向かっても、飛びかかっていった。今度は殴る蹴るの暴力を働いてみたのだ。しかし、いずれの男性もされるがままだった。カンダタがどんなにヒドい乱暴を振る舞っても、手向かう男はいなかった。カンダタの暴力を放っておけば、そのまま殺されるんじゃないかとも思われたが、ここは死後の世界だから、誰も死にはしないのだった。
 これほど酷い事をしまくっていながらも、カンダタの姿を見て、逃げようとする者もいなかった。怖がったり、恐れたり、あるいは、怒ったり、憎んだりするような素振りを見せる者も現れなかった。
 極楽の住人は、いずれも解脱しているのだ。煩悩を克服した彼らは、誰も個人的欲望には固執していない。たとえ自分が乱暴されたとしても、その事にいちいち反応してしまうような未熟な人間は一人もいなかったのである。
 カンダタの方も、これ以上、どうしたらいいのかが分からなくなっていた。こんな平和な土地にいるにも関わらず、自分は、地上(人間界)にいた頃と同じような乱暴な行為を働いてしまったのである。地上にいた時は、こんな乱れた世界では自分も悪い事をしなくちゃ生きていけないのだ、と自分なりに納得する言い訳を見出してきたものだが、しかし、この穏やかな世界でも、自分が他人に危害を加えたりしてしまうのは、一体何が原因だからなのだろう。
 考えが行き詰まってしまったカンダタは、とうとう大声でこう叫んだ。
「今日から、オレがこの国の王だ。皆、オレに従うんだぞ!分かったか!」

 カンダタは、世界でもっとも惨めな王様だった。
 勢いで王様宣言をしてしまったのはいいものの、この極楽世界では、王様として何をしたらいいのかが全く見当もつかなかったのだ。
 そもそも、この極楽界には、カンダタの国しか、国家は存在しないのである。カンダタの国は、どこかヨソの国と戦争するとか、貿易をするとか、そんな事をする必要もなかった。
 土地の治安を守る為に、統治者たる王がいるのかと言うと、そんな訳でもない。極楽世界は、元から平和しかないのである。どこまでも、王様なんてものは無用の産物なのだ。
 いっその事、住人を苦しめる圧政者としての王様になってしまえばいいのかもしれないが、カンダタがどんなワガママな事を命令しても、極楽の住人たちはおとなしく従ってくれるし、カンダタの事を邪魔に思っているような素振りすらも見せず、カンダタは悪い王様にすらなりきれなかったのだった。
 何よりも、この極楽の大地には、資源のたぐいがまるで存在しなかった。カンダタ王が、一人贅沢して、住人たちを見下してやろうと思っても、その贅沢する為の資材が見つからなかったのである。

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