小説

『蜘蛛の糸』anurito(『蜘蛛の糸』)

 さて、この物語は、カンダタが無事に蜘蛛の糸を登り切って、極楽にたどり着いた場面から話が始まる。我々の知っている「蜘蛛の糸」のカンダタは志し半ばで地獄に逆戻りしてしまったが、この世界のカンダタはたいへん運に恵まれていたのだ。
 カンダタがせっせと蜘蛛の糸を登っている最中、あとからついてくるような亡者は一人もいなかった。カンダタ自らが、他の亡者たちも誘ってみたにも関わらずだ。他の亡者たちは、この蜘蛛の糸登りもまた、地獄の新手の責め苦の一つとでも勘違いしたのであろう。そんな糸なんかに登ったら、もっとヒドい目に合うぞ、とカンダタに忠告してくれた亡者すらいた。
 しかし、カンダタだけには直感で分かったのである。この蜘蛛の糸が、生前、自分が一度だけ蜘蛛を殺さなかった事に対する恩恵であったと言う事を。だから、カンダタは迷う事なく、ひたすら蜘蛛の糸を登り続けた。そんなカンダタの姿を、仲間の亡者たちは下界からせせら笑って見上げていたが、カンダタにはもはや彼らの姿などは見えていなかった。
 そして、蜘蛛の糸を登り切って、蓮の葉が浮かんだ池の水面をくぐって、目の前に極楽の素晴しい楽園が広がっているのを見つけた時は、カンダタははっきりと自分の方が正しかった事を確信したのだった。自分の言葉を信じずに、地獄に残ってしまった亡者の連中は本当にバカばかりである。カンダタには、これから、あらためて連中を呼びにいこうと言う善意もなかった。そもそも、この蜘蛛の糸は自分一人に与えられた希望の糸だったのだ。カンダタは、蜘蛛の糸の根元をひき千切ると、あざ笑いながら、糸を地獄へと投げ落とした。
 そして、彼は極楽世界の中の冒険を始めたのだった。
 地獄とは段違いに住みやすい気候の極楽は、カンダタが人間として生きていた頃にすら見た事がなかった、素晴しい土地だった。大地には食用に適した草花が一面に咲き誇り、空では美しい小鳥がさえずっていた。あちこちに奇麗な水をたたえた池が点在し、暮らしていくには何一つ不自由がないようにも感じられた。
 極楽の探索の最中に、カンダタはこの土地の住人とも出会った。カンダタが声を掛けると、きさくに挨拶を返してくれる、見るからに善良そうな人々だった。
 この世界でならば、オレも楽しく生きていける、とカンダタは思った。

 こうして、最初の間は、極楽での穏やかな時間をのんびりと過ごしていたカンダタだったのだが、やがて、いろいろと物足りなさを感じ始めたのだった。

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