小説

『蜘蛛の糸』anurito(『蜘蛛の糸』)

 確かに、極楽では、最低限暮らしていく上での不足しているものは何も無かった。そこいら中に食べられる果物や植物が生え茂っていたし、温暖な極楽の大地では、雨すら降る事がなく、危険な猛獣や害虫の存在も見当たらなかったので、野外でいくらでも寝起きする事が出来たのである。実際、この土地の住人たちは、自分の住居を建てる事もなく、そのような野宿の生活を送っていたようだった。
 そんな楽園世界のはずなのに、いったい何が欠けているのか、カンダタは少し考えふけってみた。そして、何が足りなかったのかは、すぐに分かったのだった。
 まず、食糧として肉が無いのである。家畜がいないのだから、当たり前だ。かと言って、この極楽の土地では、野生の動物らしきものもほとんど見かけなかった。本当に菜食主義になって、ひたすら身近の草花だけを食べて、満足するしかなさそうなのだ。
 しかし、そんな生き方におとなしく納得するようなカンダタではなかった。彼は、もともと肉が大好物なのだ。やむを得ず、カンダタは手軽に捕まえられる動物で我慢してみる事にした。空には、けっこうな数で小鳥が飛んでいたのだ。それを捕獲してみる事にしたのである。
 極楽にいる小鳥を捕まえるのはとても簡単な事だった。小鳥たちは、人間の姿を見ても恐れず、素手でも押さえつける事ができたのである。本当に小さな鳥ではあったが、この際、こんな僅かな量の肉でも食べられるだけマシと思うしかなかった。
 ところが、そうもいかなかったのである。極楽の鳥の肉は、いざ口にしてみると、とても喰えたものじゃないマズさだったのだ。カンダタは、地獄にいた頃は、亡者の腐った死肉ですら食べた事があったが、そんな人肉の方がはるかに美味だったと思えるほど、この極楽の鳥の肉の味はひどかったのである。
 のちに、カンダタは、たまたま見つけた野生の鹿を捕まえて、その肉を食べてみた事もあったのだが、そちらの方の味も、極楽鳥に負けないほどマズいものだった。この極楽世界に存在する肉は、いずれも、そんな食用に適さないものばかりだったのであろう。
 やがて、カンダタは肉を食べたいと言う願望を諦めるようになっていった。いや、諦めるしかなかったのだ。
 この土地には、他にも足りないものがあった。それが、お酒だ。
 カンダタは、土地の住人たちに色々と尋ねてみたが、誰も飲酒する者はいないようだった。よって、ここには、ずっと昔から、あらゆる種類のお酒がなかったみたいなのだ。

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