小説

『晦日恋草』霜月透子(『好色五人女』巻四 恋草からげし八百屋物語)

【12月29日】

 翌日も午前中はなにごともなく、いつもと変わらない。
 夫は今日もむくりとひとりで起き上がると、のそのそ身支度をし、もそもそ朝食を食べ、こそこそと出掛けて行くのだろう。その間、ひとこともしゃべらない。
 もしも「おはよう」と起きてくれば「おはよう」と返すのに。もしかしたら、こんなことも言うかもしれない。「天気予報で夜から雨って言っていたから、折り畳み傘を持っていってね」とかなんとか。
 もしも「いただきます」と言ってくれたら「召し上がれ」と答えつつ、一の万引きの件などを相談するだろう。夫はなんと言うだろうか。
「一を呼べ」――言わない。
「おまえがちゃんと目を光らせてないからだ」――絶対に言わない。
「まあ、大丈夫だろう」――きっとそう言う。息子を信じての言葉ではない。自分がそう信じたいのだ。
 夫の生活の中に面倒事は起きるはずがないのだ。彼がそう決めたから。望むようにしか見ることのできない便利な目と心を持っていることを彼自身は気付いていない。日々を穏やかに過ごせていると思っているのだ。そのことが彼自身を穏やかな人柄にしているのだから、非難すべきことでもないのだろう。

 その夫が、今日に限って玄関先で振り返った。
「なあ、一のやつだけど」
 昨日の万引きの一件を話しただろうか。いや、していないはずだ。一自身だって言っていない。昨夜は帰ってこなかったのだから。コンビニの事務所ですれ違って以来見かけていない。
「正月、行くのかなぁ?」
 一瞬、返事が遅れた。
「……行くんじゃない? 行かないとおばあちゃんたちからお年玉もらえないし」
「そうだよな。うん。そりゃあそうだ」
 もうすこしで「行かない方がいいの?」と聞きそうになった。夫は息子と関わらないくせに面倒な存在だと思っているに違いなかった。
「ほら。電車に間に合わなくなっちゃうよ」
 私は追い出すように夫の背中を押した。慌てて出ていく背中を見送りながら、夫が何分の電車に乗るのかも知らなかったことに気付いた。

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