小説

『晦日恋草』霜月透子(『好色五人女』巻四 恋草からげし八百屋物語)

 床がやけにやわらかい。ふにゃりふにゃりとする。頭の中もなんだかふわふわする。
 小さすぎるものでは店員の目につかない。あの長い前髪に隠れた目でちゃんと見つけてくれるだろうか。
 二個入りのマフィンに手を伸ばす。ブルーベリーマフィンとイチジクマフィンのセット。紅茶と一緒に出したらちょっと素敵なアフタヌーンティになりそう。
 このまま手に持ってレジを素通りしたら、さすがにわざとらしいだろう。旅行バッグの陰に隠すように持ち、一番出口寄りの通路を通る。店員は仕事中だというのに、スマホを操作している。
 気付け。気付け。気付け……!
 ウィーンと自動ドアが開き、店員がちらりと視線だけをこちらに送る。一瞬、視線がぶつかる。とっさに顔をそむける。そのわずかな動きで大きな旅行バッグが揺れ、手元に当る。マフィンが手から離れる。踏み出した足は既に店の外。クシャともガサッともつかない音がして、足元にマフィンが横向きに落ちていた。はっとする店員の顔が視界の隅に掠める。思わず走り出す。その際になにを思ったか、欲しかったわけでもないマフィンをしっかりと拾っていく。
 駅へと続く道の先に夫と息子の姿はもう見えない。私が後ろを歩いているかどうかなんて気にも留めていなかったのだろう。
「ちょっと、あんた」
 グイッと手首を掴まれる。その勢いで振り向くとレジにいた店員だった。いつものぼんやりした雰囲気は影をひそめ、キリリときつい目で蔑むように見下ろしている。
「いい年してなにしてんの」
 彼は私の手首を掴んだまま、あいている手だけで器用にスマホを操作した。
「あー、どうもお疲れ様です。ええ、ああ、はいそうです。今ですね、万引き犯捕まえまして。はい、はい。じゃあお願いします」
 スマホを尻ポケットに押し込むと、「今来るってよ」と私に言った。
 事務所の扉が開く音。階段を降りてくる音。私の前に立つと、ため息交じりに言った。
「事務所までいらしてもらえますか」
 事務所への外階段を上りつつ、私は巨大な後悔に押しつぶされそうになっていた。旅行用バッグが重い。
 事務所には誰もいなかった。
「そこに座って」
 のろのろと椅子を引いて座る。

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