小説

『ツバメの涙は』柘榴木昴(『幸福な王子』)

 彼女はグリムやイソップといった古典的な童話が好きだった。時に残酷でヒロイニズム溢れる話が好きで、シンデレラや白雪姫の極端な展開に根源的な意味を探っていた。僕は星の王子さまや腹ペコ青虫のようなメルヘンで可愛いらしい児童文学が好きだった。可愛らしい、という球剤措置が、童話に秘められたメッセージを言葉や文だけでなく、背景として優しくゆっくりと感覚へ浸透させてくれるからという持論があった。深い考察は哲学の領域で、難しい言葉にうんざりしたときに童話を読むんだというと彼女は笑うことなく真剣に頷いてくれた。大きくなった赤ずきんのように、色素の薄い、まさにどんぐりのような瞳でまっすぐと見つめてくれた。そうなると二人を隔てるものはなく、無事教師になった真紀と僕は順当に交際を重ねていった。ただし、彼女は結婚しても五年は教師として勤続したいと言い、別に誰も反対することなく僕たちは一緒になった。
 真紀と一緒になって二人の本を並べているとき、表紙を向けて飾りたいと真紀が手にした本がある。それは真紀が好きなのに僕が嫌いな唯一の童話だ。『幸福な王子』。オスカー・ワイルド原作の、タイトルとは裏腹に悲劇中の悲劇といっても過言ではない有名な話だ。王子の像を染め上げる金箔や宝石をツバメが貧しい人々に運び、ただの銅像になった王子は人々に尽くせたと幸福を感じ、ツバメはその足元で命の灯を燃やし尽くす。
 真紀は王子の高貴さと思いやりにこれ以上ないぬくもりと尊敬を感じていた。
 僕はツバメの献身と王子の身を剥ぐ役割にこれ以上ないやるせなさを感じていた。
 王子は幸せだったのだろうか。人々は幸せだったのだろうか。貧しいものを救う優しさと意志の強さを賭けた王子に悔いはないだろう。生活の糧と神の恩恵を受けた人々は安らぎと希望を持てただろう。だけど。
 ツバメは幸せだったのだろうか。僕にはどうしてもツバメのことを考えると憂鬱になってしまう。その疑問は解けないまま、真紀は自分の引き出しにそっとその本をしまってくれた。今でも持ち主の帰ってこない王子とツバメは、机の中で寒い空の下佇んでいることだろう。

 真紀の墓石が乾いていく。ハサミで花を切りそろえて捧げ、線香を焚く。墓石の足元で細く燃える微かな火点は、ただ燃え尽きる運命にあることのみである己を顧みることはない。燃えなければ火ではない。燃え尽きなければ火ではない。
 そのはずだった。人間も、そのはずなのだ。真紀も、僕も、僕たちの中で燃え、僕たちの中で燃え尽きるはずだった。五年という期限の前に、真紀はこの世からいなくなってしまった。いや。正確には、真紀の「ほとんどは」いなくなってしまった。
 彼女は今、誰かの中で部分として生きている。臓器として。それは真紀であり真紀であった命の一部であり、真紀ではない匿名の誰かの一部だ。
 誰かの肺で、肝臓で、腎臓で、角膜で、骨で、脊椎で、小腸で……心臓だ。

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