小説

『ツバメの涙は』柘榴木昴(『幸福な王子』)

ツギクルバナー

 墓石に止まる雀に柄杓を使って水をまき追い払う。落とした携帯電話と僕のコートにも水がかかった。真紀が初めてのクリスマスに買ってくれたコートだ。一周忌は、やはりなんの変化ももたらさなかった。僕の左半分はいびつな形にちぎれたまま、視界も感覚もチリチリと歪んだままだ。神経を削りに削られたこの一年、僕の魂はやはり半壊したまま、風に流され転がっている。この一年、こぼれていく彼女との思い出をすするようにして僕は生きている。でも彼女は僕の手の届かないところで生かされている。死にながら生かされている。誰に手によってか。それは彼女自身の意思によって、あるいはその背後に、上に下に広がる得体のしれない、大きな大きな何者かによって。
 この墓石の下に、彼女は半分も眠っていない。僕の中の真紀は、知らないところで知らない誰かの中で知らないままに、生きている。彼女はいない。でも彼女はいる。それは、僕の中の真紀ではない、誰かの中の真紀だ。
 僕はきっと暗い奴で、生きることとか死ぬこととか、哲学じみてて意味不明の、形而上の有耶無耶の迷路の中に心地よさを感じるようなタイプだった。真理と普遍に怯えながらどこからか深遠な人生の考察に優越感を引っ張り出して一人を過ごすような、そんな奴だ。でも、アパートの一室で本の中の哲学者と睨みあう日々の頭の中より、現実は簡単に矛盾を超えて僕に衝迫してくる。生きているのに死んでいる。死んでいるのに生きている。こんなことは、僕にはそもそも考えも及ばなかったし、成立する矛盾に晒されて立往生するなんてことは僕の予測できる運命線上にあるはずなかった。
 濡れたコートにも土に刺さるように落ちたハサミにも構わずに、硬く手拭いを絞り、墓石を磨いていく。そう、初めて会った彼女のように。
 彼女と出会ったのは小学校の入り口だ。と言っても子供のころの話ではなく、僕はようやく担任をもち教師に慣れてきたころで、真紀は教育実習生として小学校にきて一週間が過ぎていた。僕たちの小学校は二宮金次郎像を何度も塗りなおすような古典的な学校で、戦前からの歴史と見渡しきれないグラウンドの広さでちょっと有名なところだった。真紀はまさにその金次郎像にかけられた鳩のフンを雑巾で洗い流していた。冬の気配が現れるころ、素手で早朝から雑巾を絞る彼女に、すぐに好感を抱いた。奥手だった僕は自分から話しかけることはしなかった。今でも思い出せるのは、何度も真紀にあの時から好きだったんだよと話していたからだろう。実習も終わりが見えてきたころ、国語の時間に童話をテーマに好きなシーンを生徒に創作させるという授業をしたいと相談を受けたことがきっかけだった。彼女に話しかけられたことと、児童文学が好きなことで浮かれた僕は、日が暮れるのも気付かずたくさん話し合った。彼女との接点は同じ大学の同じ教授のゼミにいたことで、僕の大学生活最後の一年がかぶっているらしかったが、僕は卒論に入るとゼミではなく教授に直接会うようにしていたのでほとんど参加していなかった。だから彼女を知らなかったが、彼女は僕のことを教授から聞いていたらしい。児童文学のゼミに共有された、童話における秘められた根源的な意味というテーマと、恐怖と笑顔と涙を均等にもつ児童文学の正規図形的バランスは、十分に二人の世界を深めてくれた。

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