小説

『注射を打つなら恋のように』入江巽(『細雪』谷崎潤一郎)

 そんなことないですよ、居てください、打つのはあしたでいいんです、というりつおの言い方はとても優しかったけれど、あたしはうそを感じた。
 その時、ある考えがひらめいて、どうしてもそれをせんとあかんとすぐに強く思った。パケ、何個引けたん、とあたしは聞き、りつおはあたしの意図をよく吞みこめないような声色で、〇・八を三パケ引けました、と答えた。それは何回分なん、とあたしは続けた。俺の使い方だと六回くらいです。いくらしたん。サンゴーです。
「なあ、一万払うからあたしにも打ってくれん、いま、あたしといっしょに打とうよ。りつお」
 ずっとくっつけたままでいたからだを離して、りつお、あたしの眼をみた。かおりさん、ほんとに打ちたいと思ってないでしょう、と言った。そしてなにか綺麗ごとを二つ三つ続けた。でも、あたしの耳には、それは、ようやくありつけた、待望の、二・四グラムを誰であろうと人に譲りたくないという気持ちを隠した言葉に聞こえた。ヤク中ってほんまに最低、なんていじきたない人種や、そう思い、口に出しても言いながら、あたしはシャブへの猛烈な嫉妬をもう抑えられず、また泣き出してしまう。
 わかりました、ほんならポンプやなくて炙りでやりましょう、お金はいいです、あたしの言葉の激しさに、やがてりつおはここまで折れてきたけれど、あたしは聞き入れんかった。あんたがいっつもやってるのとおんなしのが打ちたいって言ってるやろ、なんでわからへんの、言いながら、またビンタしてしまった。なにをしているんやろかあたしは、と思うのに、やめられない。
 りつおはまた、しょげたような、あたしを憐れむような表情になり、口を困ったようにもごもごさせ、少しうざったそうに、わかったよ、でも、どんなネタかわからんから俺さき打つわ、そのあと打ったるよ、言った。ポケットから先を曲げたスプーン出し、袖ですこしぬぐい、一回それをテーブルに放り、台所から小さなグラスとスポイトを持ってくる。パケを出して、こぼさないように慎重にスプーンに白い粉あけ、水をスポイトで垂らす。百円ライターでスプーンをそっと炙るとき、隠せない期待にりつおの表情はニヤニヤしていて、あたしはとても寂しなった。このにおい、そう、これや、見たこともない好色な顔でりつおは言う。漂う匂い、どこかで嗅いだことがあるとあたしは思ったけど、どこで嗅いだのかは思い出せない。溶液を、これも見たことがないような慎重さで注射器に吸い上げ、りつおは自分の腕をまくる。ジーンズから外したサスペンダーで自分の左上腕、りつおは締め上げる。注射ダコがところどころに浮いた細い腕をピシピシと叩く。探し当てた静脈、注射器をそろりと射し、あとは一息、りつおはシャブを打った。ああ。すごい。久しぶりやこれはええの引けたわ。そんなにすぐ効くのかとあたしは不思議になって見詰め、不意に立って、レコード箱を探し、ターンテーブルに載ったままだったスカタライツを除けて、アルトン・エリスのブレイキン・アップ・イズ・ハード・トゥ・ドゥに針を落とした。意識がはやなってきた。この曲も。えらいはよ聞こえる。りつおはいつもより少し高い声で言い、あたしのための新しいシャブの溶液をつくりはじめた。打つのはじめてやろ、少しだけ薄めにつくるわ、りつおはライターの火をスプーンに近づけた。

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