小説

『三万年目』清水その字(古典落語『百年目』)

 形の良い胸を張って得意げなマカに対し、ハナグロは少し血の気が引いた。人間の男ならその胸を見ただけで血の巡りが良くなるかもしれないが、ハナグロはまだ人間の美的感覚を身につけていなかった。人に化けることに慣れた妖怪は人間をたぶらかしたりもするが、彼はまだまだ猫の基準で異性を見ているのだ。
 もっとも、マカの本性を見るのは少し怖い。熊の喉元を食いちぎって倒す猫族なんているのか。南米に虎やライオンはいないはずだが。
「後でお肉あげるネ」
「はァ、ごちそうさんで。魚が釣れたらお礼に差し上げます」
「ううん、それよりもサ……」
 微笑みを浮かべ、マカはハナグロに身を寄せた。胸の膨らみが肩に当たるが、先述の通り、彼は人間の胸にときめく段階まで達していない。だが女特有の良い香りだけはしっかりと感知し、鼓動がやや速くなった。
「何です?」
「どこか遊びに連れて行ってヨ。町とか」
「ええ!?」
 ハナグロにとっては無茶振りだった。しかしマカは悪戯っぽい笑みを浮かべると、鼻先に長方形の白い布を取り出した。人間が風邪の予防につけるマスクだ。どこかから調達してきたのだろう。
「これつければ、模様も隠せるでショ」
「そりゃそうですが」
 以前に同じことを考えたが、このマスクというやつはどうにも息苦しくて苦手だ。しかし彼女はそのすらりと指で、マスクの紐を勝手にハナグロの耳にかけてしまった。手際が良い。
「ほら、これで大丈夫」
「……こりゃどうも」
 諦めたハナグロは釣り針を上げた。餌のミミズを外して川へ放り込むと、水面から飛び出してきたイワナがそれを飲み込む。糸を垂らしているときに食いつけよと悪態をつき、マカに向き直った。
「で、どこへ行きたいんです?」

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