清子は何時の間にかオルガンから手を離している。足もペダルから外れている。
ただ彼を見つめている。彼も清子を見つめている。
一度放たれた音楽は、清子の手を離れて鳴り続けている。小さな火が誰の手を借りずとも大きく燃え広がり、やがて火の粉を巻き上げて全てを飲み込んでいくように、狭い部屋はあっという間に温度を上げていく。息を吸うだけで喉が焼けるように痛む。畳も、土壁も、オルガンも、何もかも赤みを帯びた橙色にめらめらと染め上げられている。
海の向こうで、彼のからだを焼いたかもしれない炎。
彼は悲しげに微笑む。清子は弾かれたように彼の胸に飛びつき、襟元を掴んで叫ぶ。
嘘つき!必ず帰ると、そう言ったのに!
わたしはあなたを待っていたのに!何時かきっと帰ってくると信じて、歯を食いしばって生きてきたのに!
音楽が清子の耳を強く打つ。胸を、喉を、頭を揺さぶり、目眩で足元を覚束ない。
彼の薄い唇がそっと、清子の耳元に寄せられる。
彼の手が清子の肩を強く抱く。彼らしからぬ荒っぽい手つきで、ぐいと。
「――し、大丈夫ですか?」
清子がはっと目を開くと、白髪の目立つ中年の男性が、遠慮がちに清子の肩を揺すっていた。
蛍光緑のジャンパー。肩に印字されている寺の名前。
清子は呆然として、周りを見渡した。あんなに埋まっていた席はほとんど空いて、本堂は静寂を取り戻している。ぽつりぽつりと席を埋めているのは、パンフレットを繰る観光客と、熱心に手を合わせている参拝客だ。
「ええ、あの、わたし」
「コンサートなら先ほど終わりましたよ。このまま中にいていただいても大丈夫なんですが、その」
男性はばつが悪そうな顔で、ポケットティッシュを差し出した。
「あまり、良い夢ではなかったようなので」
清子は頬に触れた。生温く湿った感触があった。