小説

『Obligat』木江恭(『安珍・清姫伝説』)

 幸い良縁に恵まれて結婚し、娘も健やかに育ち、孫の顔まで見ることができた。この頃の昭仁の世話は骨が折れるが、これまで数十年も添ってきた伴侶であれば当然のことだろうと思う。できるだけ穏やかに余生を過ごせたなら、もう思い残すこともない。
 だから、自分が今日ここにいるのは偶然だ。偶にはお母さんも羽を伸ばしたらと言ってくれた娘の気配りを無駄にしないために、偶々覚えていた物珍しいコンサートに来てみただけ。ただの口実だ。
「時間です」
 唐突に青年が立ち上がり、そっと清子の手を取った。
「時間?」
「コンサートです。どうぞこちらの椅子に」
 気がつけば、周りの席はほとんど埋まっている。青年は丁寧な仕草で清子を立ち上がらせ、今まで自分が座っていた椅子に誘導した。
 少し強ばった掌、汗でわずかに湿った温かさ。
 何故か懐かしかった。この手を知っている気がした。
「ねえ、あなた」
「とても美しい歌なんです」
 座らせた清子の後ろに回って、青年が囁く。
「僕が貴女のために選んだ副旋律(オブリガート)。気に入ってくれると嬉しいな」
「オブ……今、何て」
「副旋律(オブリガート)。もう一つのメロディってことですよ。タイトルは――そうだな、僕だったらこう訳します」
 あなたはいつも、わたしのこころのなかにいる。
 青年の微かな吐息が耳を掠めると同時に、曲が始まった。
 囁くように、溜め息を吐くように、柔らかな息遣いでオルガンが歌い始める。背後から放たれた音が、天井や壁を反響しながら空間いっぱいに広がって、清子の体をすっぽりと包み込む。
 そのメロディは清子も知っていた。確か海外の有名な曲だった筈だが、曲名は思い出せない。
 伸びやかな音に身を任せ、清子は目を閉じる。

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