その時だった。左足の小指に、柔らかくて温かい何かが触れた。
清子はとっさに足元を見た。白い靴下に包まれた登喜子の両足は、清子のすぐ隣で行儀よく揃えられている。
ならば――それならば、今自分に触れているのは。
清子は、登喜子の体のその向こう側を、覗き込むことができなかった。
ギイ、と、左隣のペダルが動く。左足に触れた熱が一瞬離れて、また戻ってくる。触れるか触れないか定かでない、蒲公英の綿毛のように微かに。
ギイ、と、今度は清子がペダルを踏み込む。そして慎重に、もとあった場所に足を戻す。付かず離れず、ほんのわずかに触れ合うだけの位置に。
いつしか清子は目を伏せて、ただただ左足に意識を遣っていた。隣ではしゃぐ登喜子の声も、まるで耳に入ってこなかった。
結局、汗だくになりながら四半刻ばかりも粘って、ようやくいくつかの音を鳴らすことができた。豆腐屋のラッパよりも腑抜けた音を聞いて、登喜子はけらけらと笑った。
変な音!ああ嫌だ、手が埃だらけ。手ぬぐいを絞って持ってくるわ。
奔放な登喜子がさっさと出て行ってしまうと、部屋は途端に静まり返った。障子越しに差し込む西日が、今さらのように眩しかった。オルガンもペダルも沈黙した今となっては、自分が息を吸う音、吐く音、駆け足で脈打つ心臓の鼓動さえも、全て彼に聞こえてしまっているように思えて、清子はひどく恥ずかしかった。
その時、彼がぽつりと言ったのだ。
可愛らしい音ですね、と。
はっと顔を上げ、縫い止められたようにじっと見つめた筈の彼の顔を、清子はもう思い出せなかった。
「――今でも、好きですか?彼のこと」
若者らしい直球の問いに、清子は素っ気なく答えた。
「いやね。もう昔の話よ。忘れたわ」
あれからもう七十年にもなるのだ。出征した父と兄は戻らず、清子は母やきょうだいと肩を寄せて激動の日々を過ごした。一日一日を生き抜くだけで必死だった。