小説

『Obligat』木江恭(『安珍・清姫伝説』)

 ほんとうに?
 清子はのろのろと首を横に振る。
「違うわ」
 清子の手など届くはずのない、素敵な人だったのだ。ぱりっと着こなした詰襟の学生服に、すらりと伸びた背筋、凛々しい横顔、低い声。
「お友達の、お兄さんだったの。時々おうちに遊びに行った時に、顔を合わせて」
「好きになった?」
「当時はね、そんな簡単なことじゃなかったのよ」
 女学校の友人だった登喜子の家は裕福で、門構えも近所で一等立派だった。服のあちこちに接ぎを当て、お古の教科書で学校に通っていた清子とは住む世界が違った。気さくな登喜子はそんなことは気にも留めず、清子を一番の親友だと呼んでくれたけれど。
「若い男女が並んで歩いているだけで、浮ついていると憲兵に怒鳴られた時代だったのよ」
「横暴だ。信じられない」
 ギイと錆びた音が鳴る。青年がパイプ椅子に座り直した音だった。背もたれに顎を載せて、青年は清子を見つめた。
「その人と、オルガンを弾いたんですか?」
「……一度だけ。古いオルガンを見つけたお友達が、どうしても弾いてみたいと言って」
 登喜子の家の、もう使われていない女中部屋に置かれていた、小さな足踏み式のオルガンだった。長いこと放置されて傷んだペダルは、押しても引いても動く様子を見せなかったが、好奇心の強い登喜子は諦めなかった。自室で荷造りをしていた兄を呼び寄せて、三人で埃まみれのオルガンを囲むことになった。
 まずは彼の指示で、目詰まりしていた埃と木肌のささくれを取り除いた。それが済むと、オルガンの真正面に登喜子、その左に彼、右に清子が陣取って、彼と清子とで一つずつペダルを踏んだ。けれどもペダルはギイギイ鳴くばかりで、肝心の音はなかなか出なかった。
小さなオルガンの前で三人がぎゅうぎゅうと肩を寄せ合うので、清子は右足で踏ん張って体を支えなければいけなかった。左足は、滑りの悪いペダルを踏むだけで精一杯だったからだ。清子の左肩が登喜子の右腕に当たると、くすぐったい!と登喜子は身を捩った。わたしだって、と清子も笑って言い返した。

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