母親が絵本を読んだとき、まだジャックになる前の男の子は笑った。ジャックの母親は幼い息子が母親思いだと思ってよろこんだ。でも本当は、男の子は〈すごい金貨〉に笑った。
そうして〈ジャック〉が豆の木を登ったところにいた巨人から金貨を盗んで、金の卵を産むメンドリを盗んで、金の竪琴を盗んで、お話しが終わったあと、男の子はこういった。
「ぼくはジャックになるんだ!」
父親が死ぬまで、男の子は自分のことをジャックと呼んだ。死んでからは呼ばなかった。
「もうジャックだけどなぁ」ジャックの父親はジャックとふたりで夜道を歩きながらいった。
ジャックの父親とジャックは夜道をよく散歩していた。もちろん、母親といっしょに晩ごはんの食器を洗ったあとに。ジャックの母親はふたりが家にいないあいだに、自分のために本を読んだり海外ドラマを見たりしていた。たまに、ジャックの母親は玄関のドアのうしろで待ち伏せたりして、帰ってきたふたりを驚かせたりすることもあった。そんなことでも楽しかった。三人はよく笑った。
月の大きな日、母親はケーキを用意していた。小さいケーキだった。それしか買えなかった。ジャックの父親の誕生日だった。
「パパを驚かせようね」ジャックの母親は、ふたりが家を出る前にジャックに耳打ちした。
ケーキの蝋燭だけが灯ったリビングの扉が開いたとき、ジャックの母親はクラッカーを鳴らして、「おめでとう!」といったけど、ジャックの父親のよろこぶ声は聞こえなかった。そこにいたのはジャックだけだった。ジャックの右手は顔の斜め上に、透明ななにかを掴むみたいに上げられていた。ジャックはもういない父親の手を握っていた。
「タケオ、なにがあったの? ねぇ、タケオ!」
ジャックの母親はジャックの本当の名前を呼んだ。ふたりともそのことに気がつかなかった。もうふたりが〈ジャック〉という名前を呼ぶことはなかった。
ジャックは泣きながら、ジャックの父親と月の人のことを話した。
「つきのひとが、パパを、パパがとまって、つきに、こわくて、パパが、ぼくは、パパを」
母親は困惑するだけだった。ジャックの話を聞き終えると、ジャックをひとり残して夜道を駆けていった。
〈パパ 誕生日おめでとう〉
そう書かれたケーキの上のチョコレートは、小さくなった蝋燭の火で溶けていった。