小説

『ユキの異常な体質/または僕はどれほどお金がほしいか』大前粟生(『雪女』)

 海にいきたい、とユキがいったときには僕たちは同棲をはじめていた。ユキがお金を提供し、僕が部屋と、だれかと暮らすということを提供する。僕たちはうまくやっていた。寒い日にはふたりで外に出ることさえできた。僕たちはよく湖にいった。ユキの足が湖に触れると、一瞬でスケートリンクができる。僕たちはユキがまるで魔法みたいに氷で作ったスケート靴を履いて、ぎこちなく滑っていく。まるで同年代の女の子とデートしているみたいだった。こんなこと、パパたちとはやったことがなかった。
「もうすぐ、冬が終わるね」とユキがいった。
「そうだね」
「私ね、夢があるの」
 ユキは唐突にそういって、その言い方はうさんくさくて、まるでドラマみたいで、でもドラマみたいなシチュエーションだった。あたりにはだれもいない。魚たちは死んでしまっていて、鳥さえ飛びながら凍った。僕たちの声だけが聞こえて、世界にふたりだけみたいだった。
「夏」
「夏?」
「夏を、感じてみたいの。海にいったり、ね」
「うん」
 そんなことは雪女には無理だって、ふたりともわかっていた。

 でも、水なら海にいくことができる。よく晴れた日で、空には大きな入道雲がかかり、セミがけたたましく鳴いていた。駅に着くと、水がいった。
「私、電車に乗るのってはじめて」水の声はうきうきしていた。
 僕がはじめて電車に乗ったのはいつだったろうか。もう思い出せない。僕が忘れてしまったたくさんのことを水はこれから経験できるのかもしれないと思った。でも、そうはならない。

 ユキが僕のところにきてからはじめての春がきた。僕たちは部屋から一歩も外に出なかった。たいていのものは、というかほとんどすべてのものはネットで買うことができたから、僕たちはずっと引きこもっていた。僕はユキのことを名前で呼ぶようになり、ユキも僕のことを「あなた」ではなくて「きみ」と呼ぶようになり、夏がくると「きみ」は「ユキオくん」になった。窓の外はよく晴れていて、空には大きな入道雲がかかり、セミがけたたましく鳴いていた。ユキはなるべく〈夏〉を見ないようにしていた。けれど、一度ベランダの窓を開けようとしたことがあって、僕は慌ててユキを部屋にもどしてベランダの窓を閉めて、鍵をテープでぐるぐる巻きにして、窓をすべてダンボールで塞いで、ユキの体をおびただしい数の氷と保冷剤で覆った。

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