小説

『ユキの異常な体質/または僕はどれほどお金がほしいか』大前粟生(『雪女』)

 朝起きるとバケツのなかに水がたまっていた。ユキが死んだ。水たまりをどうしようかと思った。シンクに流す? トイレに流す? それとも海とか雪山とかにまく? いや、それより先にお葬式とかをした方がいいのかな。いや、でも、僕以外の人が見たら、バケツのなかの水はただの水にしか見えないだろう。じっと水を見ていると汗が流れてきた。汗をかくなんてことは、ユキと暮らすようになってから一度もなかった。僕たちが寝ているうちにエアコンが壊れてしまったんだ。だからユキは死んだ。もう下痢に苦しめられなくて済む。暑い、なんて感じるのはひさしぶりのことで、すごく喉が渇いてきたからシンクでコップに水を入れて、飲もうと思って、思い直した。水道水はすごくまずいんだ。水なら、足元のバケツのなかにあるじゃないか。
 そうだ、供養だ。供養だよな、ユキ。僕はバケツを両手で持ちあげる。大粒の汗が首を伝う。ダンボールで塞いである窓の外からはセミの鳴き声が聞こえている。蛇口からは水が流れっぱなしになっている。ごくん、と僕は唾を呑みこむ。バケツの青さがまぶしくて、僕を非難するようにバケツの底が近づいてくる。口がバケツの縁に触れる。セミと水の音が部屋に満ちていく。

 ユキとはじめて会った日、記録的な吹雪がこの辺りを覆っていた。けれど部屋のなかは暖房が効いていて、僕はただぼんやりと、雪の被害を伝えるニュースを見ていた。外では車が立ち往生し、電車が止まり、たくさんの人が事故にあって怪我をして、街頭に立っていたアナウンサーはまるでバナナの皮を踏んだみたいにきれいにこけた。僕には関係のないことだった。僕は外の世界との関わりを断っていた。いや、外が僕を拒絶した。就職に失敗する。アルバイトでは怒鳴られて、肩に触れたらセクハラだといわれてクビになった。でも、僕は大丈夫だった。その日はひさしぶりにパパがやってくる日だった。パパのことはあんまり好きじゃない。チャイムが鳴った。
 体中が雪にまみれて、がたがたと体を震わせたパパが立っていた。
「やぁ、きたよ」とパパがいって、「おお、あったけぇ」といいながら部屋のなかに入ってきた。
「雪、大丈夫だった?」と僕は聞いた。一応、心配してるふりをしておこう。
「今日は優しいんだね」とパパがいった。
「ほら、これ、今日の分」パパは僕にお金をくれた。パパが僕の髪を撫でる。
 パパとふたりでベッドに寝そべっていると、パッと灯りが消えた。
「わっ、停電かな」僕はいったが、パパはなにも答えなかった。ねむっていた。

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