小説

『猫の記憶』柿沼雅美(『黒猫』)

 それが半年前、沙耶が悠一と結婚をすると言い出した。職場の誰も付き合っていたことを知らなかったので驚くと同時に、口々におめでとうおめでとう、と喜んだ。本当に心から喜んでいる人がどれくらいいるのかは分からないけれど、喜んでいた。
 麻美はおめでとう、と悠一に電話をかけた。沙耶が近くにいない時だったのだろう、悠一は饒舌だった。まだそこで働いてるなんて偉いね、と可笑しそうな口調で言い、沙耶と付き合ってたんだね、と聞くと、知らなかったの? とまた可笑しそうな口調で言った。
 麻美も早く誰か見つけたらいいのに、あ、近場でいいじゃん適当に、と言って、わざわざ電話ありがとねー、と大学生のようなノリで電話を切った。なんなんだコイツは、と思った。なんだったんだコイツは、と思った。
 綺麗なベイブリッジを見せてくれたこと、その景色の見渡せるレストランを予約してくれたこと、プールに行っても入らずひたすらごろごろしていたこと、ただ自分が渡したいだけだからと指輪をくれたこと、その全てが嘘っぱちだった、と思った。
 沙耶は結婚式までの数日だけ、大きなダイヤモンドの見るからに婚約指輪をして仕事をしていた。その後、ダイヤのボリュームが控えめの結婚指輪をしていた。
 同僚たちは何かにつけて、沙耶に、悠一とは連休にどこか行く予定あるの? とか、元気にしてる? まだ29歳なんだし妊娠気にするより新婚は二人で楽しんでもいいんじゃないの? などと聞く。そうなんです主人は、から始まる沙耶の返事を耳にするのも慣れた。
 沙耶と話すたびに、悠一は、近場で適当に選ばれたのかな? と聞きたくてたまらなくなるのを堪えた。沙耶は知っているのだろうか。いつも微笑みながら仕事をしていても、夜には、やってらんないよね早く辞めてぇ、と言っていたのを。誰々がほんとうるさいし仕事できねぇじゃん、とグチグチ言っていたのを。悠一の弟が離婚して再婚した経緯や、実家の畑で採れた野菜の味を。女の子に手を出すのが遅いのは照れ屋だからじゃなくて、セックスが下手だからということを。沙耶はちゃんと知っているのだろうか。
 そんな、どうしようもないことを心の中から問いかけながら、麻美は、ソファの上にしゃがんで泣いた。

 2014年1月、幹久が死んだ。
 死んだことを、幹久が1ヶ月後にライブをする予定だったライブハウスの人からの電話で知った。近親者で葬儀をする予定だということ以外、ライブハウスの人も分からなかった。幹久と共通の友人がいなかったこと、恋愛関係を誰にも漏らさなかったことが仇になった、と思った。

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