小説

『鉄砲撃ちと冬山』清水その字(宮沢賢治『雪渡り』)

 爺様がぽつりと呟く。クマは俺たちから目を離し、その声のする方角を向いた。そしてのそのそと振り返ったかと思うと、そのままこちらに尻を向け、歩き去る。俺たちにも子供にも、興味を失ったかのように。
 爺様がライフルを下ろし、俺の散弾銃を上からそっと抑えた。それに従い銃を下ろすと、クマは少しずつ足を速め、川の上流へ向かい駆けて行った。



「お前が会ったのは、おキツネ様だ」
 喜一にいくらか説教をした後、船橋爺さんは俺に言った。喜一は道に迷った後、山の斜面から滑り落ちて足をくじいたらしい。なんとか川まで歩いて行ったところで限界に達し、倒れたところへクマがやってきたようだ。俺は銃に加えて、子供一人をえっちらおっちらと背負って帰る羽目になった。助けた後は緊張の糸が切れて盛大に泣いていたが、泣き疲れてすっかり大人しくなっているのが救いだ。
「キツネは女に化けるって、よく言うだろう」
「いや、まさかそんな……」
 爺様があまりにも真剣な顔で言うので、思わず苦笑しながら答えた。いくら何でも今の時代、キツネが人を化かすだなんて、現実の話だとは思えない。
 しかし爺様は笑いながら、本当のことだと言った。
「人に化けるってことは、獣じゃなくなるってことだ。キツネって漢字はどんな字だ?」
 そう言われてハッとした。『狐』から獣偏を取るとどうなるか、ようやく気づいた。
 言い伝えによれば、キツネたちはこの山を守っているが、人間がシカやイノシシを獲るのは生活のためだから許してくれる。ただし、たまに人間をからかって遊ぶという。お前がキツネの言うことを信じたから助けてくれたんだ、と爺様は付け足した。
 彼女の悪戯っぽい笑みと、あの試すような目つきを思い出す。今頃あのクマは彼女からブナの実を受け取って、住処へ帰っているのだろうか。素朴な迷信だと思っていたが、そういうこともあるのかもしれない、という気持ちになってきた。とにかく確かなのは、この山には人間の分からないことがまだまだあるということだ。
 俺たちが山を出る頃には、もう日が傾いていた。背後でキシキシ、トントンと雪を踏む音がして、はっと振り向く。しかしそこには誰もおらず、疲れ切った喜一の寝息が聞こえるだけだった。その代わり前へ向き直ると、農道からいくつもの黒い影かやってくるのが見えた。
 迎えに来た、町の人たちだった。

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