そう言い残すと馮驩は屋敷を抜け、どうにか包囲もくぐり抜けて、とある豪邸に忍び込んだ。
ここに昭襄王の寵姫が囲われている。一国の君主も惚れた女には弱いもので、
「心の狭い王様、キライ!」
などと泣枯れると困ってしまう。英雄、色の好むというが、中国もまた長いその歴史上、この手の傾城・傾国タレントに事欠かない。
そこを突くのが馮驩の賭けだった。しかしこの寵姫、確かに美しいが、欲の皮も相当なもので、
「そうね、王様にお願いしてみてもいいんだけど」
「お願い申し上げる。この通り」
「いいんだけどぉ―――孟嘗君さまって、アレ、お持ちなんでしょ?」
「金子ならここにこれ、このように」
「今さら、お金なんか欲しくないのよ。欲しいものはみんな王様が買ってくれるんですもの。けど、王様でも手に入らないものがあるの」
「と、言われますと」
「もう、とぼけちゃってェ。王様の持ってる財宝より、もっとずっとレアなアレよ。レ・アな、ア・レ!」
「―――!」
彼女は孟嘗君が所有する宝物「狐白裘」を賄賂に要求したのだった。
狐白裘とは狐の腋の白い毛だけを集めた衣で、一着に狐が一万匹ばかり必要という、きわめて希少なアイテムである。
「よりにもよって、あれか」
孟嘗君はその貴重な宝物を一着だけ持っていた。しかし秦に入国する際、昭襄王に献上してしまっている。
招かれるほうが貢ぐなど、あべこべのようにも思われるかな。否、これぞ真理でござる。とっておきの宝物を差し出して、二心のないところを示しなされ。
食客の一人がそう進言して、
「忠誠の証しに家宝を献上しますから、陛下もお心変わりのなきように」
ところがあっけなく心変わりして殺されかかっている。
「王から盗み出すのでなければ張り合いがない」
などとうそぶいた馮驩だが、まさか今をときめく大国・秦の宝物庫がターゲットになるとは思わなかった。
「まあ、やるしかないかね」