小説

『吾輩は坊ちゃんである』太郎吉野(夏目漱石『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『こゝろ』『三四郎』)

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 吾輩は坊ちゃんである。名前はまだ無い。
 親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。無鉄砲に加えてこれも親譲りの短気である。
 生来の無鉄砲と短気とそそっかしさから、人助けのつもりで奸物の教頭とその腰巾着の美術教師をぽかりとやった。四国松山で中学の教師をしていた時分のことだ。おかげでせっかく手にした高給の職を棒に振ることになった。
 なに、あのような田舎で、こすっからい中学生どもや狡い田舎者の相手をするにほとほとうんざりしていたところ、清々したというのが本音だ。しかしこちらは人助けのつもりで教頭らを殴り天誅を加えてやったのに、肝心のその人からは別段の感謝もされなかった。やはり損だ。

 とはいえ一番の損といえば、名前がないことにつきる。これは不便極まりない。
 吾輩がそう嘆くと、あなたには坊ちゃんという立派な呼び名があるのだからいいではないかという人もある。ある人に至っては、例の猫はともかく、あの先生の恋敵だってただの「K」だし、そもそもその先生にしてから呼び名だけで名前がないのだから贅沢をいいなさんな、などと説教をくれる始末だ。しかし、呼び名はあくまで呼び名であって名前ではない。それでは困る。
 確かにあの先生やKやあるいは猫にしても吾輩と同じく名前がない。しかし、その先生やKや猫は、もううに死んでしまっている。死んでしまっているから、もはや名前がなくとも困ることはなかろうが、吾輩はまだ生きている。これは大いに困る。
 松山を遁走の後、伝手を辿って技手の職に就いた街鉄は、ほどなく東京市電気局という役所になった。今はその局の電車課勤務で部下もいる身だ。当初二十五円だった俸給も今や倍近くになった。部下もお出来になんなすったのだから、それくらいの貫禄はなくちゃいけませんと人に言われて、口髭もたくわえた。
 自分のことを俺なんて言うのもおやめなさいとの諫言に従って、あの猫に倣ったわけでもないが、こうして自分のことは吾輩、などと鹿爪らしく呼んだりもしているのである。

 それなのに、たまに電車の運転士の横に臨乗などすると、客席の方から「坊ちゃん」「ああ、坊ちゃんだ」というひそひそ声が聞こえてきて、頗るばつが悪い。
 先日などそのように臨乗している最中、九段あたりであの三四郎が乗ってきた。き奴は吾輩を認めるなり、「やあ、今日は坊ちゃんの電車かね。これはこれは恭悦至極。坊ちゃん、どうかね最近は」なぞと、辺り憚らぬ大声で馴れ馴れしくも呼ばわりやがる。

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