小説

『第十一夜』たぼく(『夢十夜』夏目漱石)

「八十歳まで生きるとして、全時間の資産は二十五億二千二百八十八万秒。そこから引くことの十七億三千四百四十八万秒で残り時間は七億八千八百四十秒。さらに睡眠に六時間、仕事に十時間使えば、自由に使える時間はおよそ二億六千二百八十万秒となる。我々は一秒を一円で買い取ろう」言いながら輩は書類の裏にサラサラと計算した残りの寿命の秒数を書き加えた。大切な命の時間を意味のない記号のように書き記した。
「そ、そんなに?」吾輩の寿命が八十歳までと決まったわけではないが精神的に衰弱しきっていたので、すんなりとその数字を受け入れた。
「すぐに始めた方がいい。ゼロになる前に。ゼロというのはすなわち……」
「命が尽きる。死んでしまうってことなんだろう? そんなのはごめんだ」
 答える吾輩に見向きもしないで輩は手帳の白紙のページを破り取りボールペンでさらさらと時間資産についての計算式を書き、式が書かれた紙を飲食店の店員が会計の書かれた伝票をテーブルの端に忍ばせるように置いた。吾輩はただ遠巻きに紙に書かれた膨大な桁の数字を見て黙り込んだ。目の前の男には、今まさに吾輩の頭の中で様々な考えがめぐっていることはお見通しなのだろう。あとはこの膨大な桁の数字が我輩の脳を廻り、遅効性の毒のように思考の中で威力を存分に発揮するのをただ待つだけでよかった。善悪、損得感情の間で吾輩は逡巡した。時折冷たい汗が額から頬を伝って流れ落ちた。男はそれを見落とさなかった。輝きのない黒い瞳で冷徹にその様子を見ていた。そしてこれ以上ない絶妙のそのタイミングで駄目押しの言葉を放った。
「使ってしまったものは仕方ない。決して返ってはこないからな。大事なのは残りの七億八千八百四十秒をどう生きるかだ。これからは極力、節制を心がけたほうがいい。分かるね?」吾輩を哀れむように男は吾輩にそう言った。吾輩は答えることができずに唾を呑み込んだ。
「分かるとも」
「では、今すぐ我々のプランに沿った時間運用を始めよう」
 吾輩は頷くしかなかった。
「まずライフサイクルを見直せ。睡眠と仕事にどのくらい時間を使うんだ?」
「睡眠に六時間、仕事に十四時間くらい、かな……」
「仕事に十四時間も?」
「ああ、パンは生き物のようなものだから、美味しいパンを作るためには片時も手が離せない」
 どんなにまいっていてもパンのことを考えると胸が踊る。それが輩には不快のようだった。話を聞くそぶりでうなずきながらも、帽子の奥の瞳は付け入る隙がないかとこちらを鋭く観察している。
「朝は五時には仕込みを始めないと、朝食に焼きたてのパンを買いに来てくれるお客さんのためにも」
 吾輩は店や仕事の大切さを思い出し元気を取り戻しかけた。

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