小説

『第十一夜』たぼく(『夢十夜』夏目漱石)

「立ったままではなんですから、どうぞ」訝しく思いつつも冷やかしがてら聞いてみることにした。聞くだけ聞いて、この男の底が見えたら体良く追い払おうと考えた。気晴らしになるかも知れない。
「では、お邪魔いたします」愛想のよい作り笑いを浮かべ、輩は見計らったタイミング通りに事が運べて機嫌が良さげに言った。
 店の奥の狭い事務室に案内した。ここからは厨房も店の中もよく見渡せる。厨房ではパンのタネが発酵中で暖かくいい香りがいっぱいに広がっている。小さくても手入れの行き届いた手作りの温かみのある店内に焼きたてのパンが所狭しと並ぶ。ここを初めて訪れた人ならば、その微笑ましい光景に思わず笑顔になってしまうはずだ。「小さなパン屋さんでもやって暮らしていけたらな」と誰もが想像したことはあるであろう理想像的な暮らしぶりがここに実在している。吾輩の愛した光景。けど今は、この愛すべき厨房と店の光景には何の値打もないように思えてしまう。それどころか吾輩を縛る退屈の根城のように思えた。このあやしげな来客が持ってきた何かは吾輩をこの退屈から解き放ってくれるかもしれないという期待さえ抱いていた。
「これはとても有意義な話だ」
 男は高圧的な態度でもったいぶるように言った。
「なんなのかね?」
 吾輩は多少イラつきながら訊きかえした。
「お前は貯蓄はどのくらいしている?」
「貯蓄? まあ俺も店の経営者だからね。いざという時のために少しなら貯金しているよ」
「金のことじゃない。時間のことだ」
「時間の貯蓄?」
 驚く吾輩の様子をみて何も知らないのかと呆れたように溜息を吐きながら男は言った。
「知らないようだな。実は俺はそのために来た。あんたの時間を貯蓄して必要な時に使えるようにしてやろう。銀行と同じだ。必要になったらいつでも引き出せるし利子もつくぞ」
「バカバカしい。そんなことできるわけがないじゃないか」何を言い出すのやらと吾輩はその場にいるのも馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「できる」とだけ言って吾輩の言葉を遮った。辺りの空気がピシリと凍りついたようだった。輩の輝きのないその瞳に見つめられると、何やら冷やりとした寒気がほとばしるのを感じた。
「試しに一分やろう」男はそう言ってトランクケースから小さなフラスコを取り出した。ラベルには「memento mori」と書かれている。フラスコの中には小さな花が一輪入っていた。
「開けてみろ」と言われ、渋々言う通りに蓋を開けるとドライアイスのような白い煙がみるみる部屋に充満した。小さな瓶にも関わらず、部屋いっぱいに煙が充満しても足りないほどにまだまだ溢れ、やがて部屋一面を覆い尽くした。

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