小説

『第十一夜』たぼく(『夢十夜』夏目漱石)

「確かに素晴らしい。しかしどうしてそこまで私のためにしてくれるんです? 見てわかると思いますが、私はしがないパン屋だ。資産なんて大して持ってない。報酬としてお支払いできる金額もたかが知れているよ。あんたたちは何を見返りに求めているんだ? もしお金が目当てなら、もっと金持ちのところへ行ったほうがいいぜ」吾輩は正直に言った。見栄を張ってもすぐにバレるだろう。手に入らない望みなど捨ててしまえばいい。金がないと分かればこの男も去るだろう。それならそれでいい。
「報酬は貯蓄からほんの少し手数料をもらえればいい。それから金がないというなら……」男は思い出したように白々しく話を切り出した。今思えばこれが男の狙いだったのだろう。「我々は時間を買い取ることもできる。持て余した人生の時間を我々が買い取る。あんたには金と有意義な時間だけが残り、我々はあんたから買い取った時間を誰かに貸し与えて利益を得ることができる。その時間を誰かに貸し与えれば、時間が足りないと嘆いている人物も人生を有意義に過ごすことができるという訳だ。素晴らしいと思わんかね? 無駄な時間など売り払って富と有意義な時間だけが残るのだよ」とても素晴らしいことを伝えるような慈愛に満ちた口調で言った。ただ男の目は負けを取り戻すことに躍起になっているギャンブラーのように暗くギラついていた。
「幸い契約書をはじめ、手続きに必要な書類が全て手元にあるから今すぐ契約することも可能だぜ。あんたはついてる」付け足すように男は言った。
「……少し考えさせてくれないか」吾輩はあまりのことに事態を飲み込めずにいた。時間をおいて冷静に考えたほうがいいだろう。
「何を迷う必要がある。即決しろ。時間が勿体ない」男は語気を強める。
「そういわれてもなあ……」断るべきだ。こいつは怪しい。吾輩の直感がそう言っていた。しかし吊り下げられた餌はあまりに魅力的だった。
「一年は三六五日、一か月は三十日、一時間は六十分、一分は六十秒。では一日は?」男は早口でまくしたてた。
「え、ええと、さあ分からんね」突然始まった矢継ぎ早の質問に答えられなかった。本気で応えようとも思っちゃいないが、もともと算数だか数学だかの計算は苦手なのだ。
「八万六千四百秒だ」残酷な事実を告げるような口調で輩は言った。何でこんなことも分からないんだと呆れているようにも聞こえるような冷たい口調だった。
「あんた今、年齢は?」
「五十五歳だ」
「ふむ、一年は三千百五十三万六千秒だから、それを五十五回繰り返し、これまで十七億三千四百四十八万秒もの時間を生きてきたわけだ」
 吾輩はなぜだかギクリとした。自分自身が生きてきたこれまでのことが無駄だらけだったかのような罪悪感を感じた。

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