小説

『真っ赤な歯車』加納綾子(『歯車』芥川龍之介)

 僕はふらふらと田舎道を歩いていた。そういえば一時間ほど前、娘と息子を義母の田んぼに残してきた。子供たちは今頃、義母に二人でいるところを見つけられ、家に連れて帰られただろう。そして縁側で西瓜でも食わしてもらっているにちがいない。
 しかし、子供たちのことよりも、僕はいまどこを歩いているのだろう。この一時間、僕は、僕には珍しくほとんど何も考えずに歩いていた。いつも僕はいろいろのことを考えすぎて精神科から注意される人間だ。精神科医は、僕にもっとぼうっとしろというのだ。しかし、困ったことだ。僕はこの一時間、精神科の喜ぶはずの「ぼうっと」していたのにちがいはない。しかし、ここはどこだ?僕は何か難しいことを考えながらでないと道も歩けないようなのだ。僕のぼうっとするは、何も頭にないことであった。自分がなにをしているのか、歩いているのか、寝ているのか。それすらもわからなくなってしまうことであった。精神科が僕に勧めていることはおそろしいことだ。おそろしいことだ。思考の復活した僕は、また頭の中でそういうことを繰り返し考えながら、湯気の立ち上るほどの熱さを持った、知らない田舎道を歩いていった。
 僕の意識が戻ってから半時間ほど歩いただろう。僕は田んぼがたくさん並んだところへ出てきた。義母の田んぼとは少し様相が違う。
 田んぼの中からは何も生え出ていない。そして、そこにあるすべての田んぼに張ってある水が、赤かった。—水?僕はぐらりと田んぼのへりにしゃがみ込み、その赤いもののにおいを嗅いでみた。驚いた。血だ。何の血だかはわからないが、たしかにそれは鮮やかに赤い血であった。その血は田んぼにひたひたと揺らぎ、風が吹くとトロリと模様を浮かび上がらせた。しかし不気味だったのは、この暑さの中でその血のにおいはほとんど不快に感ぜられなかったということだ。ただ、それが血のにおいだということだけは明瞭であった。僕はどうしたものかと考えた。血の田んぼなど、義母の家から一時間半のところにあっただろうか。僕はどっちの方角に歩いてきたのだろう。などと、様々なことを考えながらゆらりゆらりと歩き続けていると、突然後ろからリンリンリンリンと鈴の音が聞こえ始めた。僕は驚いて後ろを振り返った。すると、後ろから近付いてきていたのは三人の十五六歳の娘たちであった。皆、紅い鼻緒の草履を履き、背中には大きなかごを背負っている。鈴は、その華やかな草履に結び付けてあった。娘たちが歩くたびにリンリンリンリン、爽やかな音が響いた。しかし、その爽やかな音はなぜか僕の心を不安にさせた。
 娘たちは僕にまったく構うことをせず、のろのろ歩いている僕の隣を軽快に通り抜けて行った。そうして娘たちは右にある田んぼのあぜ道に向きを変え、横に並んでいたのを縦にしてその細いあぜ道を、足を滑らさないようにしているのか、心もちゆっくり歩いて行ったのだ。そのときである。田んぼの血の中から、その手のひらだけでも一メエトルもあろうかという大きな手が、血を飛び散らせながら出てきたのである。その手は手首を五〇センチほど見せていた。血まみれのその手は明らかに人間の男の手であった。しかしその大きさは常軌を逸している。

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