小説

『真っ赤な歯車』加納綾子(『歯車』芥川龍之介)

 あまりのことに呆然としている僕とは違って、突然娘たちは黄色な声を発してはしゃぎはじめた。
「いやだ、また出て来なすったわよ。」
「この方はいつもこうね。」
「きっと寂しいのね。おかわいそうに。」
 娘たちは様々なことを語ったが、それはいずれも歓喜に満ちた声をしていた。
 血にまみれた巨大な手は、ゆっくり歩いてゆく娘たちを必死で追いかけながら、まずその紅い鼻緒の草履に触った。草履はリンと音をたてた。
「まあ、いやですわ。」
「いつもこうなさるのね。」
「そんなに寂しいんですの?」
 娘たちはそう言いながらも嬉しそうにその指を受け入れていた。手は次に、膝小僧から下が出ている娘たちの脚に手をのばした。
「まあ!おほほほ!いやですわ!」
「着物にまで血が付きますわ!」
「おほほほ!そんなに寂しいんですの?」
 娘たちの真っ白な脚は、みるみるその血で汚れていった。しかし僕は、その娘たちの脚に一種の官能的な興奮を感じずにはいられなかった。
 娘たちは血にまみれてしまった脚を拭こうともせず、華やかな声をあげながらあぜ道を渡りきり、そこにあった林の中へ鈴の音とともに消えてしまった。
 手は、またゆっくりと血の中に姿を消した。そこに残った真っ赤な波紋は、僕に真っ赤な歯車を連想させた。先日精神科は「歯車が見えたらこれをお飲みになって下さい。いつも持ち歩いていてくださいね。」といって僕に白い薬を手渡した。僕はふとそれを思い出して、右のポケットの中をまさぐった。はたしてそれは右のポケットに入っていた。僕はその中から二錠を取り出した。—が、これを何で飲めばよいのだろう?水は持ってきていない。このあたりに水を買える店があるとも思われない。
 そう考えているうちに、真っ赤な歯車は大きさを増してきた。そうして音もたてずに、徐々に徐々に僕のほうへ近づいてきた。
 —もう、血で飲むしかあるまい。そう思い、僕は左の手で田んぼの血をすくい、それを口の中に入れた。存外、まずくない。なぜか甘い味がする。僕は右の手に持っていた二錠の薬を血とともに胃の中に流し込んだ。しかし飲んですぐに歯車が消えるわけではない。歯車が見えるといつも頭痛がはじまるのが僕の病である。僕は頭痛を恐れるあまり、気がふれたようになって田んぼの血を両手ですくって何杯も何杯も腹の中に入れた。口の中に入らなかった血は僕の顎や首を伝って、最後にはぽとぽと下に落ちていった。

 

1 2 3