小説

『かみかくし』薮竹小径(『草迷宮』)

 その歌声は懐かしく、不意に涙が落ちそうになる。
「どうかしましたか」
 男はもう笑っていない。「ほら行くぞ」と言うと強引に袖を引っ張った。しかしこちらもじっとはしていない。なんだか怖くなって、もう鳥居はくぐりたくない。歌が段々近くなってきている。すると月が山を越えたのか、顔を出した。辺りが照らされると、岩に腰かけた祖母を認めた。
 祖母の近くに駆け寄ると、思わず涙が流れた。祖母は座ったままふくふくと笑っている。
「よく来たね。待っていたよ」
 祖母の懐かしい優しい声が心に沁みる。手を掴むとその温かさに声が漏れた。
「あの男が連れてきてくれたんだ」と辺りを見渡すともう男はいない。
「馬鹿だねえ。あれは悪い奴さ。こういう神隠しの手段なのさ」
「じゃあ、鳥居をくぐるといけないの」
「鳥居をくぐると戻れない」
「でもお婆ちゃんは」
「私はもう死んだからねえ。死人に怖いも何もない」
 岩に座って話していると、昔に戻ったような気持ちになった。色々なことを話した。その全てを楽しそうに聞いてくれた。
 いつの間にか月が沈もうとしている。山は再び暗闇に包まれそうであった。
「ほら、時間だ。帰りなさい」
「もう会えないの」
「なに、また会えるさ」
 祖母に抱きつくとなんだか温もりが薄まった気がする。不思議に思っていると「早く行きなさい」と言われた。
「帰りはどんなに怖いことがあっても決して振り返ってはいけないよ」
「隙を見せたらいけないんでしょう」
 それを聞いて祖母は笑ったが、その顔は少し寂しそうであった。
「また来るよ」「ええ、待ってるよ」
 帰り道は突然闇の中に落とされたのかと思うほど、何も見えない。「行きはよいよい、帰りはこわい」とはこのことかと思いながらも足を速めた。鳥の鳴き叫ぶ音、木々の擦れる音全てが、ここから出しやしないという気持ちに感じられた。随分長い下山路であった。いつまでたっても戻れない。不意に鳥居の辺りまで戻って、祖母と二人で暮らす方がどんなに楽しいかと考えたが、祖母の気持ちを考えるとそうするわけにはいかなかった。

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