小説

『綱』大前粟生(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

039
「おまえらバカかよ! 冷静になって考えてみろよ。いくら優秀なの精子を持つ者を見極めるためだとはいえ、数十メートルの高さから人を落とすわけないだろ。落とされたやつらはな、みんな、スタントなんだよ。サクラなんだよ。きっと、血糊とか特殊メイクして、怪我したふりや死んだふりをしてるんだよ。まぁ、おまえらはそうやって指をくわえて見てればいい。おれは先にいくぜ!」と、綱を登りながら男がいった。ドラマや映画みたいな台詞で、あいつこそサクラかもしれない。でも、サクラだったらもっとさりげなく誘導するはずで、ということはあいつはサクラではなく僕たちといっしょの受験者ということになるが、そう思わせるためにわざとわざとらしい台詞をいったのかもしれない。綱から落ちてきた男たちを見ると、その苦しがる様子はとても演技だとは思えないが、あの男の言葉を信じて綱を登る受験者もちらほらと出始めた。それとは逆に、やはりあいつの言動には裏がある、もしかしたらそれがなにかのヒントかもしれないと思って、四つん這いになって地面を調べている男もいる。
465
 こんなの、都市伝説だと思っていた。まさか本当に、独身男性を集めて優秀な精子を選別しようだなんて。頭悪いと思う。このテストも、綱を登ってるやつらも。少子化なんて、もう止められないだろ。子どもを作らないと変な目で見られる、なんて時代じゃない。子どもを産むことなんて、社会のためにすることじゃない。個人の自由だ。性は男とか女とかの枠を越えて多様化している。「男らしく」とか「女らしく」とか、おれはばかげてると思う。じゃあ、なんでここにおれはいるのかっていわれると、たぶんおれはだれかをばかにしたいんだ。
482
 体力テストは多くのやつらが0ポイントのままで終わるだろう。だったら、少しだけでも綱を登った方がいい。でも、綱を登った高さによってポイントが決まるなんて、だれもいっていない。そもそも、これは本当に体力テストなのか? 他に見られていることがあるんじゃないか? 登るべきか登らざるべきか、それが問題だ。
066
 ここは地獄だ。空調がろくに効いていないから、男たちのにおいがたむろってる。くそ、何人いるんだよ、ここに。なに食べたらそんなにくさくなるんだよ。くそ、綱を登ったら、においましかなあ。
120
 きっとモニター越しに見たら、いや、モニター越しじゃなくても、おれのこの格好は気持ち悪いものなんだろうなって、自分でわかってる。わかってて犬みたいに地面に鼻を近づけて歩いてる。男たちの目線が突き刺さるのがわかる。おっさん、気持ち悪いんだよっていう目線が。おれはそれを気持ちいいと思っているが、それは今は関係ない。おれがこの格好をしているのは、目立つためだ。今のところ、おれが見える範囲で四つん這いになっているのはおれだけだ、全裸で。綱に手を出していないほとんどの奴らは、上を見上げるか、下を向いているか、隣の奴と話し込んでるかだ。そんなんで、アピールできると思っているのか? 印象に残ると思っているのか? 精子を残せると思っているのか? 生き残るためには、人とちがうことをしなきゃいけないんだ。たとえそれが、馬鹿にされるようなことでも。

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