小説

『綱』大前粟生(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

083
 血に触れもしていないのに、血のにおいが鼻の毛穴に詰まっている気がする。もう胃液さえ出ないのに胃がひっくり返るみたいだ、顔が凍ってしまったみたいにぎこちなくて、上半身ぜんぶが内側から圧迫されている気がする。ここにいるより、登った方がましなんじゃないか。
064
「ふだんなに食べてるんですか?」と風俗嬢にいわれたことがある。+1万円で飲んでもらったんだ。「え、どうして?」と僕は答えた。「ほら」と風俗嬢がキスしてきて、苦かった。でももしかしたら、急激に風俗嬢の内臓が腐ってしまったのかもしれないと思って、家に帰って飲んでみたら苦かった。僕はそれが悔しかった。どうしてそんなに悔しいのか、自分でもわからないほどに。だから、僕は家に通知がきてからあらゆる事態を想定して、猛勉強したり筋トレしたりした。僕が一番になってやる。一番になって、苦い精子をばらまいてやる。綱を登るペースは悪くない。
199
 おーい、だれかー、だれかたすけてくれー!
660+213
「すいません、ちょっとお話し伺ってもいいですか?」
「あ?」
「いま、どんな気持ちですか?」
「うぜぇやつに話しかけられてイラついてる」
465
 たくさんのものがほろんできて、おれたちがその過去にほとんど無関心で、そうなっちゃたんだからしかたない、なんて思ってるように、少子化だとか温暖化だとかもしかたないことだろう。いつか絶対、なにもかも終わってしまうのに、おれたちはたまたま、ある出来事の終わりの途中に生きているからそれを騒いでしまうだけだ。そして、終わってしまうことの大多数が、おれたち自身が選んだことだ。選んで、選んだことによる自由だとかなんだとかを得ているんだから、あとはもうなりゆきに任せたらいいんじゃないかと思う。少子化対策だとかも、なりゆきのひとつにはちがいないけど。
234
 だから! 僕は! 僕が安心して老後を迎えられるように、子どもは必要だと思うんだ! 新しい労働力を産まないといけないんだ! 歳とってまで働くなんていやだ! 
601
 66番のにおいが消えた。まだかすかにこのあたりに漂っているけど、それが完全に消えてしまったら、僕は懐かしいと思うかもしれない。ここを出たあとで、街中でふと彼のにおいを嗅ぐことがあったら、僕はこのテストのことを思い出すんだろうな。

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