小説

『綱』大前粟生(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

539
 綱の黄土色とささくれで、手がカラカラに乾くと思っていたけど、そんなことはなかった。綱は湿っていた。だれかの汗が染みついていた。途中から、ちょうど、照明がこときれたところから、ねちょねちょし出した。血だ、と思った。だれかが落ちていった綱を登るのは、落ちていっただれかを背負っているみたいだ。そいつが死んでいるとはいいきれないのに、このあたりに亡霊が黒く漂っている気がする、蜘蛛の姿で。
007
 登りはじめてずいぶんと時間が経ったように思えるのは、なにも見えないからだろう。見える情報がなくなって、その分考える量が増えたのだろう。だれかが落ちる悲鳴も、下から聞こえ出した「おーい、だれかー、だれかたすけてくれー」という声も、もう聞こえなくなった。それほどに高いところにいるのだろう。下の光はだんだん小さくなり、点に近づいていく。ときどき僕の綱がだるんと揺れるのは、落ちる人があたったからだろう。その度に、綱が切れる様子が浮かぶ。本当に切れているのだろうか。と、上の方にも点の光が見えはじめてきた。これがゴールか。ポイントの量は先着順かどうかはわからないが、早ければ早いほど心象はよくなるだろう。光がだんだん近づいてくると、それが光ではないように見えはじめた。パンティかと思った。白い。でもちがった。綱を登った果てにあったのは、大きな蜘蛛の巣だった。死ぬと思った。絡み取られて、蜘蛛の栄養にされるんだ。だから僕は綱をゆっくりと降りはじめた。底につくまでに、いったいどれほどの時間がかかるのだろう。だが、じきに、そこまでかからないことがわかった。なにかが切れる音がした。
146
 落ちつづけ、落ちつづけ、まだ、落ち切らない。内面だけじゃなくて、外の時間もゆっくりになっているみたいだ。見えなかった目がぼんやりと見えてきた。顔を覆う血の色をすかして、空が見える。明るい空が、あるところからパッと黒くなっている。そこから、突然に男たちが現れる。みんな落ちている。直線として落ちる綱や、曲線として落ちる綱の間で、雨みたいに男たちの背中が落ちてきて、ばたばたと床を鳴らす。
356+1
「で、月も星もない空の途中に垂れてたんだ。それでさ、女たちが極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をずっと見てたんだよ」
「はぁ、で?」
「いや、それで終わりだよ。この話はもう終わりだよ」
「ふーん」
「アメリカンジョークってこんなもんだよ」
「あ」
「ひぇー、血と肉と、綱の雨だな」
「蜘蛛まで落ちてきてる。うわ、うるせぇ」
「耳が割れる。なんの音だよ。地獄みたいだ」
「昼休憩のサイレンだろ。体力テストは終わったんだ」
「でも、テストはまだ、続くだろう」

1 2 3 4 5 6 7 8 9